戊戌の意味 – 2018年の干支を考える

本来の干支は占いではなく、易の俗語でもない。それは、生命あるいはエネルギーの発生・成長・収蔵の循環過程を分類・約説した経験哲学ともいうべきものである。

即ち「干」の方は、もっぱら生命・エネルギーの内外対応の原理、つまりchallengeに対するresponseの原理を十種類に分類したものであり、「支」の方は、生命・細胞の分裂から次第に生体を組織・構成して成長し、やがて老衰して、ご破算になって、また元の細胞・核に還る ― これを十二の範疇に分けたものである。

(安岡正篤  『干支の活学』より抜粋)

2017年の干支は丁酉(ていゆう/ひのと・とり)、発生・成長がピークを越えて、次なるフェーズへの移行もしくは革命への岐路であり、一方で内ではあらゆる機が熟すことが示唆される年でした。2018年は、そこからの紛糾を示唆し、果断を要求する戊戌(ぼじゅつ/つちのえ・いぬ)を迎えます。
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丁酉の意味 – 2017年の干支を考える

丁の上の一は、陽気の代表的な干である去年の丙の上の一(一は陽気を表す)を承けて、さらに陽気が進んだ段階を示しております。したがって、春から延びてきた陽気の最後的段階、季節でいうならば四月、五月に当たります。しかしその頃になると盛んであった陽気が、やや末期に入ってくる、沈んでくる。それが丁の字の本義であります。

酉であるが、これは元来酒を醸造する器の象形文字で、醗酵を表している。したがって成る・熟する・飽く等の意となり、時刻では午後五時から七時、季節では仲秋、方位では西方を表す。(中略)中に醸されている新しい勢力の爆発、蒸発、これは昔から新しい革命勢力のつくられることを表すわけであります。

(安岡正篤  『干支の活学』より抜粋)

気付くと2016年も終わりに近づき、新たな年を迎えようとする時期になりました。2016年の干支は丙申(へいしん/ひのえ・さる)で、思いきって発達してくる陽気に形を与え、活動として発展させていくべき年とされます。丙申を受けて、2017年は丁酉(ていゆう/ひのと・とり)を迎えます。
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ひとたび知らば、忘るる能わず

若一知其姓名、則終身不能復忘、固不如毋知也。且不問之,何損、

もしひとたび姓名を知らば、終身また忘るる能わず。もとより知るなきに如かざるなり。かつ、之を問わざるも何の損ぜん。

(宋名臣言行録  丞相許国呂文穆公  呂蒙正)

宋の政治は二代皇帝太宗が整備を進めた科挙による、文人官僚を核とする機構が特徴とされます。初代太祖の時代にも同様の課題意識がありましたが、群雄割拠の時代から統一された宋において、いかに将軍たちの力を削ぎ、中央に権威を集めるかは重要なテーマでした。

そのための打ち手の1つが「科挙」による人材登用です。呂蒙正は太宗が開始した、皇帝自らが最終試験官となって行う科挙の殿試の最初の首席合格者で、いわば純粋な宋の政治機構のトップバッターに位置する人物です。
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礼とは何か – 円満なる調和と秩序

「礼」とは何か。およそ存在するものはすべてなんらかの内容をもって構成されている。その全体を構成している部分と部分、部分と全体との円満な調和と秩序、これを「礼」という。

(安岡正篤  『知命と立命』より抜粋)

中国思想、そして日本において、「礼」は「徳」と並んで重要な概念だと思います。しかし、いかにも内面的な「徳」と違い、「礼」は日常の形式として親しみがあるため、かえって理解が難しいように感じます。

「礼」の意味合い、在り方について、個人的な理解を少しまとめてみたいと思います。
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曖昧さと確かさ、孤独と寂しさ

国語という教科は、広い意味での文科学、ないしは人文的な知識の代表という意味があるのに対して、算数の方は、広義の理科的なものの基礎をなす教科といえましょう。つまりこういうわけで、国語と算数とは、広義におけるわれわれ人間の人文的な教養と、理科的自然科学的な教養とに対して、それぞれ基礎的基盤的な意味をもっているわけです。

(森信三  『理想の小学教師像』より抜粋)

生きるということは、おそらくとても曖昧で、だからこそ取り組む意義があるように思います。しかし、曖昧ばかりでは生きていけないので「確かさ」は必要で、一方で本来は確からしくはないということを忘れてはならない。

学問を分けて論じるのは便宜上の問題で、本来的な教養とは合一的なものだろうとは思いますが、代表的な国語と算数という科目を題材に、学問の意義を考えてみたいと思います。
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観察と知の発達 – 『モオツァルト』と天才性

天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。(中略)天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屡々起るのか。

詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだということになろう。自由な創造、ただそんな風に見えるだけだ。制約も障碍もない処で、精神はどうしてその力を試す機会を掴むか。何処にも困難がなければ、当然進んで困難を発明する必要を覚えるだろう。それが凡才には適わぬ。

(小林秀雄  『モオツァルト』より抜粋)

日常の中に「困難」を発見(発明)し続けるという行為は天才にのみ許された努力である。もちろん、その観察能力は天才に及ばないとしても、日々をつぶさに観察するという行為はとても大切だと思います。
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智の構造と発達 – 世間智、分別智、無差別智

無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明と見る力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。

だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。

そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。(中略)「みなが違うというのだから、違うのかなあ」というふうである。

(岡潔  「無差別智」より抜粋)

智(知)というと何かを知ること、理解することのように思いますが、知ることと惑わないことは多くの場合で一致しません。「知る」ほどに頑なになる人がいる一方で、「知る」ことをやめても頑なになってしまうように感じる。

それでは「智」とはどういうもので、いかにして養うものなのか。
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時間を感じる – 人間的な時間とは何か

ニュートンの時間がすでにわからないのです。物理学として説明がつくということはわかりますけれど、ああいう時間は、素朴な心の中にはないわけです。アインシュタインはそれを少しもじったともいえますし、そのままともいえるかもしれません。

(小林秀雄・岡潔  『人間の建設』より抜粋)

私たちを日々縛っている最大のものの1つは「時間」だろうと感じます。こうやって歳を越そうというとばたばたとする。それも1つの「時間」です。日々は1分1秒の積み重ねで、時間に追われていると感じる人もあるかもしれない。

しかし、1秒というのは尺度に過ぎない。小林秀雄と岡潔の対談、『人間の建設』を読んで感じた、時間についての考えを少しまとめておきたいと思います。
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丙申の意味 – 2016年迎春にあたり

「丙は炳なり」と炳の文字を当てはめてある。あきらかとか強いといかいう意味であります。文字学的に言うと、丙の上の一は思い切って伸びる陽気を表し、冂はかこいを表す。それに入という字を書いてある。陽気が囲いの中にはいる、つまり物は盛んになりっぱなしということはない、ということをこの字は表しておるわけです。生命・創造の働きというものは無限の循環であります。

申は伸と同じで、のびるという意味であります。(中略)善悪両方の意味においていろいろ新しい勢力、動きというものが伸びてくることを表す。

(安岡正篤  『干支の活学』より抜粋)

2015年の干支は「乙未(いつみ/きのと・ひつじ)」で、障害が多い中で茂る枝葉を適切に処理し、しっかりと根固めをすべき年でした。そこから発展する2016年の干支は「丙申(へいしん/ひのえ・さる)」です。

しっかりと根固めがなされたことにより、ぐんぐんと伸びる(あるいは根が腐り、とめどなく枯れる)。しかし、伸びっぱなしではその陽気を活かすことはできません。
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井魚は以て海を語るべからず

井魚不可以語於海者、拘於虚也、夏蟲不可以語於冰者、篤於時也、 曲士不可以語於道者、束於教也、

井魚は以て海を語るべからずとは、虚(墟)に拘(とら)わるればなり。夏虫は以て冰を語るべからずとは、時に篤(固)ければなり。曲士は以て道を語るべからずとは、教えに束(縛)らるればなり。

(荘子  秋水篇第十七  一)

井戸の魚は自分の狭い住みか(墟)に、夏の虫は暑い季節(時)に、見識の狭い人間は自分が受けた教育(教)に拘われ、縛られている。

縛られるのは仕方のないことですが、自分が何に縛られれているのかを認識することで、日々は少し息がしやすくなるように思います。
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命を知る – 盛衰哲学としての易経

不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也、

命を知らざれば、以って君子と為るなし。礼を知らざれば、以って立つなし。言を知らざれば、以って人を知るなし。

(論語  堯曰第二十  三)

命・礼・言を知るをもって、人間のことは完全に備えられる。この一節が二十編におよぶ『論語』の最後におかれることは、非常に意味のあることだろうと感じます。

今回は『易経』というものの「命を知る学問」、盛衰の哲学としての側面を少し考えてみたいと思います。
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いささかよければ事たりぬ

いささかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是皆、わが気を養なふ工夫なり。

(貝原益軒  養生訓  卷第二  三十六)

貝原益軒の『養生訓』には、養生のためには安心を得ることが大切であると繰り返し説かれています。そして、人がなんにでも十分に満足できることを求めることが、その大きな妨げになるとされます。
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秩序ある混沌 – 物事をより深く知るために

私はよく学生に、「物事を整理してしまわないように」と言っています。「君が捨ててしまったそれは、消してはいけない」と。

学生が「描いているうちに、消してしまいました」と言ったら、「その中に大切なものがあるかもしれない。消さずにバランスを整えていき、調和させていく。そこが勉強なんだ」と言います。

混沌を抱え込んだまま、その混沌に秩序を与えることが、絵を描いていくプロセスなのです。この「秩序ある混沌」が芸術作品につながります。

(『芸術を創る脳』  「なぜ絵画は美しいのか」より抜粋)

東京大学で言語脳科学を専門に研究されている酒井邦嘉さんと、日本画家で水や滝をテーマとした絵画を多く描かれている千住博さんの対談の中で見つけた言葉です。

混沌の中に秩序がある。混沌は完全に掴みきれるものではないが、その中に秩序を見出していこうとする行為は、以前にご紹介した鈴木大拙の「無限への憧憬」という感覚に通じるところがあると感じます。
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人皆心あり、心各々執るところあり

忿(いかり)を絶ち、瞋(いかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人皆心あり、心各(おのおの)執るところあり。

彼是とすれば、則ち我は非とし、我是とすれば、則ち彼は非とす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫のみ。

(十七条憲法  第十条)

聖徳太子(厩戸皇子)が制定したとされる「十七条憲法」は、崇峻天皇の弑逆から女性天皇である推古天皇の即位という、政治的混乱の中で定められたものです。和を以て尊しとするその教えは、学ぶところが多いと感じます。
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万の事はしらざる故に不審あり

万の事はしらざる故に不審あり。うたがはしき故に、その事が胸をのかざる也。道理があきらかにすめば、胸に何もなくなる也。是を知をつくし、物をつくすと云う也。

(柳生宗矩  『兵法家伝書』  より抜粋)

『兵法家伝書』は進履橋(しんりきょう)・殺人刀(せつにんとう)・活人刀(かつにんとう)の3部から成り、宮本武蔵の『五輪書』と並ぶ代表的な武道書です。

引用した一節は「殺人刀」の中で「ならひ」の方法を記したもので、『大学』の致知格物を引いて、その方法が説かれています。
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寺田寅彦の学問観 – 『柿の種』より

このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向けに落ちるわけを、だれか研究した人があるか、と聞いてみたが、たぶんないだろうということであった。

花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。

学問というものはどうも窮屈なものである。

(寺田寅彦  『柿の種』より抜粋)

寺田寅彦は明治から昭和にかけて活躍した物理学者です。私が大学時代にお世話になった先生が、寺田寅彦坪井忠二竹内均という地球物理学の系譜を受け継ぐ方だったこともあり、個人的にはとても尊敬する人物の一人です。
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志の難きは自ら勝つに在り

知之難、不在見人、在自見、故曰、自見之謂明、
志之難、不在勝人、在自勝、故曰、自勝之謂強、

知の難きは人を見るに在らず、自ら見るに在り。故に曰く、自ら見るをこれ明と謂う。志の難きは人に勝つに在らず、自ら勝つに在り。故に曰く、自ら勝つをこれ強と謂う。

(韓非子  喩老第二十一  十三)

『韓非子』には、解老(老子を解す)・喩老(老子に喩う)という2篇があります。当然ながら、韓非子自身との関係は疑われますが、天道を人間社会における規律として明文化していくのが「法」と捉えると、2つの思想が干渉し合うことは自然だとも感じます。
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孤悲、故非 – 「恋」とはいかなるものか

恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私たちが苦悩と忍従の中で、どれほど強くあり得るか、ということを自分に示すためにあるものです。

(ヘルマン・ヘッセ  『郷愁』より抜粋)

恋だのなんだのという身でもありませんが…、ある知り合いが「恋」について文章を書いているのを見て、どういうものだろうと考えたので、少しだけ記しておければと思います。
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万の事も始め・終りこそをかしけれ

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛(ゆくへ)知らぬも、なほ、あはれに情(なさけ)深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。

(徒然草  第百三十七段)

「徒然なるままに」で始まる『徒然草』は、吉田兼好(兼好法師)が著した随想です。『枕草子』、『方丈記』と並べて三大随想とされ、心に余裕を持つべきときに手に取る本として、とても面白いものだと思います。
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居きて倦むことなく、行ふに忠を以てす

子張問政、子曰、居之無倦、行之以忠、

子張、政を問ふ。子曰はく、「之を居(お)きて倦むことなく、之を行うに忠を以てす。」

(論語  顔回第十二  十四)

政(まつりごと)とは、これを心に居(置)いて倦むことなく、忠誠を以て行うものである。人は何かに邁進している内は良い。しかし、倦んでしまうのもまた人であり、その点に戒めが必要だと感じます。
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