時空の話

ずいぶん前だったと思うけれど、東大の大学院で物理学を専攻している学生と面接をさせてもらった際に、

僕たちは今、「物事は一意に決まる」とか、「時間の流れは一定である」とか思っているけれど、量子力学や相対論の世界ではそうではない。たぶん、僕たちもいつかはそういう感覚の方が普通だと思うようになるんじゃないかと思う。

というような話をしてくれた。その話に僕はとても納得して、それ以来、きっとそうだろうと思っている。

時間とは何か、空間とは何か、という問題は現代科学でもあまりよくわかっていないようだけれど、いわゆるニュートンの運動方程式に登場する「時間(t)」ほど単純なものではないようである。時間も空間も一定でも連続でもないし、むしろ、常に存在しているわけではないのではないかとも考えられている。

 

そんな話は突拍子もないような感覚を抱きつつ、物事は連続ではなく、細かく分割していった際に最小の値があるという発想は古代ギリシャの時代、アリストテレス以前にはあったという。また、時間も空間も、というか、ありとあらゆるものは存在していない(実相を持たない)というのは、いわゆる「空」であって、東洋では馴染みある感覚とも言える。僕という存在が、常に確かに存在しているわけではないのであれば、時間や空間も同様であろうと考えるのは自然とも思える。

自然科学が、哲学的・宗教的な概念や感覚と通じるところがあるという主張は神秘主義的な印象を与えて、あまり好ましくないとは思っているのだけれど、実際に繋がりを感じる部分はある。厳密な議論は僕の理解では難しいので、あくまでイメージの話にはなるが、世界の認識についての所感を書いてみたい。

物事の根拠

量子力学が記述する世界では、複数の物理的な「系」のあいだの関係を抜きにしては、現実は存在しない。事物が関係を選びとるのではなく、関係が「事物」という概念に根拠を与えている。(中略)

相互作用の瞬間においてのみ、つまり過程の末端においてのみ、「事物」の性質はあらわになる。そして、事物が性質を帯びるのは、ほかの事物との「関係」を考慮したときだけである。しかも、その性質は一意には予見できない。

(カルロ・ロヴェリ  『すごい物理学講義』より抜粋)

これが量子力学における、事物の性質だという。量子重力理論では、これをさらに時間と空間にまで拡張し、長年の問題である量子力学と相対論の統一が試みられている。相互作用の瞬間以外の物理量は、文字通り、存在しない。エネルギー(= 質量)も空間も量子的、つまり連続的ではなく、どこにどう現れるかというのは確率である。それと同時に、その中においては同時性を持ったいわゆる「時間」というものは存在していない。

時間というものはある瞬間、ある場所において存在しているけれど、それは他の瞬間や場所における時間とは異なるものである。重力の大きさによって時間の長さが異なるというのは相対論で予言されたことで、それは実際にそうだったわけだが、その在り方は量子的であるといったことが近年、研究で取り組まれている。(統一の試みには複数の理論があり、時間や空間を連続と考えるものもある)

 

このあたり、僕の理解が間違っているかもしれないが、少なくとも物事というのは僕たちが普通に思うような、確かな実態を持ったものではないということは言えるのだと思う。先ほど引用した文章を見ると、「関係」を根拠にして、その関係に現れた「性質」によって、事物らしい何かの存在を想定できるということになると思う。(物事と事物は大きく意味は異ならないが、物理学では「物」を取り扱うため、「物」を強調した表現である事物という言葉が使われている)

 

一方、大乗仏教では、「縁起・無自性・空」ということが言われる。あらゆるものは縁によって起こっており、それ自体の性質(自性)というものは持たない。

大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空(śūnyatā)の観念を基礎づけた。空(śūnya)とは、その語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。われわれが今日数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語ではシューニャ(空 śūnya)と呼ばれる。それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。(中略)

無も実在ではない。あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。空というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような、二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係(relationality)にほかならない。

(中村 元  『龍樹』より抜粋)

「空」ということ自体は原始仏教、つまり釈迦によっても説かれていたと言われるが、社会的勢力を背景に独善的・高踏的な態度に陥りがちな伝統的・保守的仏教(一般には小乗仏教と呼ばれるが、これは大乗仏教から見た際の蔑称)に対して、「般若経」の中で繰り返し説かれるようになり、ナーガールジュナ(龍樹)によって高度に理論化されたとされる。虚無主義と理解され、批判されることもあるが、概念の常として、「空」は単に世界の構造についての観方に過ぎなくて、そういうものだという以上のことはないのではないかと思う。中村元が「依存関係」という言葉で表現しているように、「空」は無ではないし、ましては有ではない。

 

ニクラス・ルーマンによって提案された、第二世代の社会システム理論も、量子重力理論や空の概念と類似性を感じる。ルーマンはそれまで社会のもっとも基本的な要素とされてきた個人や行為ではなく、コミュニケーション(行為ではなく、相互的な情報伝達それ自体)を社会の基本単位として考える。そして、彼の理論では、社会システムは一般的なシステムで想像されるのとは異なり、階層を持たないとされる。

システムの基礎となり、また分解不可能な単位は、最小限のサイズのコミュニケーションである。この最小限のサイズもまたシステムから独立に決定されることはない。(中略)

コミュニケーションの完成は、理解をともなう。理解はコミュニケートするひとの活動の一部というわけではなく、また理解をそのひとに帰することはできない。それゆえ、オートポイエティックな社会システムに関する理論は、社会学内部における概念上の革命を要求する。すなわち、システムの基礎的作動のレベルを特徴づけるものとして、行為理論をコミュニケーション理論にとって替えることである。

(ニクラス・ルーマン著、土方 透 / 大澤 善信 訳、『自己言及性について』より抜粋)

ルーマンは主体概念を徹底して拒絶する。彼は、主体と客体という基本的区別にもとづいて論じるかわりに、システムと環境の分離を提案し、人間は社会の一部ではなく、社会の環境に属すると主張する。(中略)同時に、彼のシステム理論をコミュニケーション概念を中心に展開し、人間あるいは主体がコミュニケーションするのではなく、コミュニケーション自体がコミュニケーションするのだと主張する。

(クリスティアン・ボルフ著、庄司 信 訳、『ニクラス・ルーマン入門』より抜粋)

コミュニケーションは行為ではないので、特定の誰かにその理解を委ねることができるものではなく、システムにおける相互作用である。そして、その相互作用が、社会システムの構成単位である。

空気はなぜ透明か

僕にとっては、量子重力理論も、空も、社会システム理論も、どの特定の個体・個人にもその根拠を求めることができない相互作用が世界を構成していると主張しているように見える。存在も、時間も空間も、その相互作用を最小単位として、相互依然性というのか、相互作用性というのか、そういうものによって発生しており、相互作用していない状態においては、存在というものを議論することが難しそうに見える。

もちろん、それぞれの理論が依っている基本的な論理はまったく異なる。量子力学や相対論は多分に数学から導出されているし、「空」の理論は縁起の考え方と通じている。ルーマンの社会システム理論は、生物学や哲学、数学、サイバネティクスなどの学際的なアプローチを根拠としているし、なによりもオートポイエーシス理論の円環的構成を社会学に導入したものだという。ただ、なんとなく主張している世界観は通じているものがあるように感じる。

 

ところで、「空気はなぜ透明か」という問いがある。実際のところ、空気は別に透明ではなくて、ヒトの視覚が地球上に降り注いでいる波長の光に対して、モノが見えるように進化(自然淘汰)したということに過ぎない。地球上に降り注ぐ光の波長と、例えば金星の表面に降り注いでいるであろう光の波長は異なるので、もし地球が金星のような環境であれば、僕たちが「空気」と呼んでいるものは透明ではなかったかもしれない。

同じような話が物理学でもあって、重力は物理学で記述される他の力に比べると、極端に弱い。それは何故かというと、重力は僕たちが知覚できる次元に対して弱くて、その本来の力は僕たちには知覚できない他の次元に(僕たちから見ると)逃げているのではないかという説がある。そう考えると、僕たちは単に重力が弱い宇宙に適応しているだけかもしれない。僕たちの宇宙の重力は惑星の軌道をある程度、安定させているが、異なる強さの重力ではそれは成立しないかもしれない。僕たちは、僕たちの宇宙を外部から観測できないので、比較宇宙論という学問はおそらく成立しづらく、その真偽を確かめることは難しいが、一定の納得感のある説明だと思う。

 

存在であったり、時間であったり、空間であったりは、もしかしたら常に存在していて、連続的なものなのかもしれない。ただ、少なくとも人間の認識能力においては、それは量子的で、何かや誰かとの相互作用という形でしか観測できないし、相互作用なしでは、存在というものの根拠を見出せないものなのではないかなと感じる。もしくは、僕らはそういう法則に適応した何かなのかもしれない。

在るのに無くて、無いのに在って、というか、在るとか無いとかという話自体がそもそも存在しているのかも、存在していないのかもわからないというのは、まあなんだかよくわからないけれど、そういう感覚だからこそ、只今ということが言われるのかもしれないと思う。

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