君子と小人

君子というと徳があって立派な人、小人というと身勝手でつまらない人、という気がなんとなくする。そして、小人はあまり良くなくて、君子であることが望ましいという印象を持つのではないだろうかと思う。

今回はそのあたりについて、少し考えてみたい。

君子の特徴、小人の特徴

君子や小人についての説明は様々にあり、特定の思想にのみ登場するものでもない。むしろ、古今東西、どんな社会や思想にも見られる概念で、人間が人間に対してなんらかの評価をする際に、好ましいかどうかを判断する基準として用いられてきたものだろう。

行動原理や基準に関する説明は多くあり、例えば、以下のようなものは有名だと思う。

君子喩於義、小人喩於利

君子は義に喩(さと)る。小人は利に喩(さと)る。

(論語  里仁第四)

君子和而不同、小人同而不和

君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。

(論語  子路第十三)

君子役物、小人役於物

君子は物を役し、小人は物に役さらる。

(荀子  修身篇第二)

小人は利益を重視して、同調はするが、なかなか調和するということがない。外界の事物に束縛され、振り回されてしまいがちである。一方、君子は義理を大切にし、むやみに同調したりせずに、周囲と調和する。しっかり身を修めることで、外界の事物を思うように用いることができる、という。

 

また、君子は特に過失に対して、ためらうことなく改めるということも言われる。「豹変」という言葉は、良くない意味で使われがちだが、本来は『易』の「革」の卦の説明にある、君子の在り方を表現したものである。

君子豹変、小人革面

君子は豹変す。小人は面を革める。

(易経  革)

豹はその毛皮の模様をはっきりと色変わりさせるという。それと同様に、君子がいかに鮮やかに自らを変化させていくのかということを表現している。ここでは、小人は顔色を変えるだけである、と説かれているが、『論語』には、

小人之過也必文

小人の過つや、必ず文(かざ)る。

(論語  子張第十九)

ともある。

 

ただし、なんでもかんでも君子は完璧で、小人は駄目と考えるのも少し違うと思う。『論語』などでは、そのように感じてしまうような表現も多いが、実際には役割というものがあるし、君子にも小人にもそれぞれに気を付けるべき点がある。

君子労心、小人労力、先王之制也

君子は心を労し、小人は力を労す。これ先王の制なり。

(春秋左氏伝  襄公九年)

小人溺於水、君子溺於口

小人は水に溺れ、君子は口に溺れる。

(礼記  緇衣第三十三)

君子は君子なりの、小人は小人なりの努力や工夫を意識することが大切なのではないかと思う。

君子型と小人型

北宋の司馬光が編纂した『資治通鑑』には、君子と小人に関する非常に簡潔な考察が記されている。

もともと知恵すぐれ意志鞏固の人を才能の士といい、正しく素直で中庸の道の和やかな人物を徳ある者というのである。才は徳を完成する素材であり、徳は才能を正しく才能として動かす将帥である。

(中略)才・徳いずれも十分に伸びている者を聖人といい、才・徳二つながら失われている者を愚人といい、徳が才よりもまさっている者を君子といい、才が徳よりもまさっている者を小人というのである。

(中国古典文学大系  『資治通鑑選』より抜粋)

大雑把にいうと、「才より徳が勝っている人(徳 > 才)」が君子型、「徳より才が勝っている人(才 > 徳)」が小人型というわけである。

これはある人物の内容における徳と才の大きさを比較しているだけで、徳や才の絶対的な大きさを評価しているわけではないので、徳が大きくても才がさらに走っていれば小人型となるし、徳も才も大きくなくても、どちらかというと徳が勝っていれば君子型ということになる。当然、偉大な小人というのもいるし、大したことのない君子というのもいることになる。

 

その上で、その絶対的な大きさに関わらず、小人よりも愚人の方がまだマシであるというか、失敗が少ないというか、そういうことが言われる。

すべて人を選んで用いようとするときの原則は、聖人・君子を見出してかれらと共に行動することが許されない以上は、小人を得るよりは愚人を得た方がよいのである。というのは、君子は才を用いて善を行おうとし、小人は才をたのんで悪を行おうとする。才を用いて善を行おうとする場合は、すること為すこと善でないことはなく、また、才をたのんで悪を行おうとする場合も、やはりそのすること為すこと悪でないことはない。そして愚者は不善を行おうとしてもそれだけの知恵もなく、力も十分には出し得ないからである。

(中略)国を治め、家を治めてゆこうとする者にとって、才と徳との区別を明確にして、何を先にすべきか、何を次にすべきかを見分けることができたとするなら、それ以上、人の支持を失うということについて、あれこれと思いわずらうことはないのである。

(中国古典文学大系  『資治通鑑選』より抜粋)

才というのはわかりやすくて親しみやすく、また、優劣ということになりやすいと思う。才に対して、徳というのはわかりづらくて、一緒にいて気分が良いとか、なにか惹かれるものがあるとか、そういうものはあるけれど、何がそうさせているのかというと、その人の全体的な雰囲気ということになるし、畏れて距離を感じることもあるかもしれない。真似をすれば良いかというと、必ずしもそうではなくて、自分なりに自然や他者と調和をしていかなくてはならない。

 

そうは言っても、現実に対処していくためには、実際には複雑な才能が必要とされる。ただひたすらに、道徳的に「聖人・君子でなければ愚人を採る」というわけにもいかないところがあると思う。それについては、以下の安岡正篤の解説がわかりやすいと感じる。

方正学などは愚人大賛成者ですが、蕃山や東湖は道徳的にはそれも誠に結構であるが、政治というものになってくれば、甚だ趣を異にするといっております。政治は複雑な才能を要するから一概に小人を排斥するわけにはゆかぬ。しかし、小人は飽くまで小人であって、利己的であるから創造的職責を持たせる長者の地位、総統的地位、すべてそういう大事なところには小人は据えられぬものである。すなわち、小人は要するに使用人であって、使用者的価値はないものとしております。

(安岡正篤  『日本精神通義』より抜粋)

このあたりは政治においても、経済においても、同様だと思う。100%、厳密に運用しろということではなく、そういう感覚を以てバランスを取るということが大切なのではないかと思う。

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