このサイトについて

「講老箚記(こうろうさっき)」というサイトは2011年頃から始めて、中国の古典や東洋思想に関連した覚書を残してきた。たまたま、ちょっとサイトに不具合が生じてしまい、データベースはバックアップがあるので復元しようかとも思ったのだけれど、ここ数年はあまり運用しておらず、良い機会かなと思って、いっそゼロからまた考えてみようかなと思っている。

 

思想や哲学は、存在や世界について知りたいという欲求から生じるものだと思う。いわゆる「実在」「実存」が問題になるのも、我々が認識しているものは本当に存在するのか、という素朴な疑問を抱くからだと思う。

古代の信仰や思想から、近代の自然科学に至るまで、その始まりは直観にある。例えば、自分の存在を僕は直観している。しかし、それが本当なのかはわからない。そこから問題が始まる。

知りたいから観察をするし、観察をすることで発見がある。発見は新たな問題を生じさせる。目的や理由などは不要で、直観し、知りたいと思い、試行錯誤して発見する。その一連の行為が人を沸き立たせる、と僕は思っている。

 

18世紀頃に起こった真理と科学(知識)の分離を、村上陽一郎は「聖俗革命」と名付けたが、近代の知識や技術は「近代」から逃れがたい。「近代」は直観から出発しているが、それが孕む方法があまりに再帰的であったため、現時点では戻ることも進むことも難しくなっている。或いは、科学が宗教を解体したように、AI(人工知能)が科学を解体するなら、それは人にとっては意味があるのかもしれない。ただ、AIは現時点ではあくまで科学の再帰的な発展のように思うので、そうはならないのかもしれない。ちょうど、宗教がどれほど発展しようとも、宗教を解体することがなかったように。

いずれにせよ、僕の試みは、直観から物事を理解していこうとすることである。そのために、まずは直観からいかに東洋の思想を読めるのかという問題に取り組みたい。ただ、どちらかというとそれは出発点としてのプラクティスであって、直観による思考や発想を体感・体得したいためである。出発点として東洋の思想に取り組むのは、僕自身が東洋の人で、その直観に多少なりとも近いからだと思う。

 

神という秩序も、科学という秩序も、直観から出発しているはずである。人が生きているのは神の存在によるのか、科学の存在によるのか、それをどう捉えるかは真理の問題ではなくて、直観と信仰の問題だろう。科学が人のためになるという主張と、神が人のためになるという主張は、ほとんど同じくらいの何かだろう。

直観と真理と世界と人間の間には、何かしらの繋がりがあるように思う。それを知りたいと思うのが、僕の欲求だと思う。