道(みち)

道(みち、もしくは、どう)という概念は東洋では重要、かつ、広範に用いられる。元々の意味は当然ながら、人やケモノなどが通る道で、そこから例えば方向を示したり、ある位置に到達したり、繰り返し歩まれたりする性質を持つものに対して、「道」と呼ぶようになったと想像される。お天道様という表現は、太陽が絶えず天の道を辿ることから名付けられたのだろう。

例えば毎日、学校に通ったり、会社に通ったりすることは、すごいことだと思う。日々歩むということに対して、尊さや奥深さを感じたということも、「道」という概念に通じていると思う。

 

概念の捉え方としては「法則」のようなものを指す場合と、「規範」のようなものを指す場合がある。法則にしても、規範にしても、自然に関するものから人や集団に関するものまでが幅広く含まれている。『老子』はより根源的に、「在り方」のような意味を道に与えている。

天の道、人の道

中国思想文化事典』によると、「道」の概念はまず、天道と人道という表現の中で見られ始めたという。天や自然の法則や規範、人や社会の法則や規範に関心を持つことは自然な発想で、例えば月の満ち欠けは暦(カレンダー)を生み出して、月が新しく生まれる「つきたち」を始まりの日とした。「つきたち」は、「ついたち(1日)」という形で、今でも日常的に使われている。

 

天道と人道に関係があるか、関係がないか、というのはおもしろい問題だと思う。例えば、僕は個人的には晴れていると気分が良い。太陽は人の営みに影響を与えている。ただ、太陽が人のことを考えて活動しているかというと、それは違うだろう。人に限らず、物事は天から発しているので、一定は天の影響を受けるが、天災を人の振舞いの是非と結びつける考え方については、注意が必要だと思う。例えば、太陽の光を人が好ましく感じるのは、その方が生きやすかったという実際的な要因に依存していると思う。地球上の生命は太陽光によって生産される化合物(酸素や植物など)を生存のシステムとするわけなので、当然、太陽光を好ましいという性質を遺伝的に有することになる。

人の道を探究する上で、なんとなく天の道に頼りたい気分になるのが人間というものだと思うけれど、春秋時代の鄭の宰相であった子産は、

天道遠、人道邇、非所及也、
天道は遠く、人道は邇し。及ぶ所に非ざるなり。

(春秋左氏伝 昭公十八年)

として、天象に基づいて火災を予言した占い師を「彼はおしゃべりなだけである」と退けている。人道は身近にあるものであり、目の前の物事に対して行なっていくものである、というのが子産の主張だろうと思う。荀子も天と人を別物として扱っている。

常の道

「道」について有名な一節は『老子』の冒頭だろう。

道可道、非常道、
道の道とすべきは常の道に非ず。

(老子 第一章)

例えば、道を論理とか科学みたいなものだと思ってみると、例えば世の中にはたくさんの論理がある。学校であれば、先生の論理と生徒の論理は異なるし、教育委員会も別の論理で動いていると思う。会社であれば、トップとマネージャーとメンバーの論理は違うだろう。職業ごとに見ていくと、弁護士と医者の論理も違うだろうと思う。

 

科学も近代以降は真理ではなく、再生産のための学問であって、それがすべてを解決しないことはあまり疑う余地はないと思う。合理性は身に付けるべき方法だし、例えばビジネスの中では非常に有用だけれど、日々を生きるということを考えてみると、それをすべてとして生きるのは違和感や矛盾もあると思う。

この道こそ「道」である、と思ったところから、人は道を誤ってしまう。道はあるのだけれど、それは道であって道でない。道とはそういうものだし、だからこそ、我々は道を以って生きることが出来る。道は確かにあると直観されるのだけれど、どんなものかというとわからないし、わからないところに道があるというのが『老子』の主張だろうと思う。

 

『論語』においては、例えばいずれも「里仁 第四」に見える、

朝聞道、夕死可矣、
朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。

夫子之道、忠恕而已矣、
夫子の道は忠恕のみ。

は有名で、「道」が一般的な用語として幅広く用いられている。もちろん、それぞれの書物が成立した時期やその後の改変を正確に知ることはできないが、紀元前には「道」という概念が様々に用いられていたのだろうと思う。

「道」の字義

「道」は象形文字である。一般的には十字路の象形文字である「行」の真ん中に足跡の形を置いたものを起源とするとされる。

白川静は呪術的な解釈を行うので、

首と辵(ちゃく)とに従う。古文の字形は首と寸とに従い、首を手(寸)に携える形。金文には首と辵と又とに従う字があり、のちの導の字にあたる。辵は歩く、行く意。首を手(又)に携えて行く意で、おそらく異族の首を携えて、外に通ずる道を進むこと、すなわち除道(道を祓い清めること)の行為をいうものであろう。

(白川静 『字統』より抜粋)

という説明を加えているが、甲骨文字や初期の金文(左上)の形を見ると十字路(十字路のみの形は「行」の字)の真ん中に足跡の形を置いてあると見た方がシンプルなようには感じる。『説文解字』は小篆(秦代の文字)を基にした字典であり、甲骨文字や金文に関する知識がない状態で編纂されたものではあるが、「行く所の道なり」としている。字形の変化を見ると、多義的な解釈がなされるべき文字なのかもしれない。

 

道はその読みに近い形で「タオ(Tao)」と訳されることも多いが、「Way」や「Reason」と訳されているケースもある。岡倉覚三(天心)の『茶の本』の中には、以下のような一説も見られる。

「道」は文字どおりの意味は「経路」である。それは the Way(行路)、the Absolute(絶対)、the Law(法則)、the Nature(自然)、Supreme Reason(至理)、the Mode(方式)、等いろいろに訳されている。こういう訳も誤りではない。というのは道教徒のこの言葉の用法は、問題にしている話題いかんによって異なっているから。

(中略)「道」は「経路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。

(岡倉覚三 『茶の本』 「第三章 道教と禅道」より抜粋)

もちろん、私はバリエーションを知り尽くしているわけではないが、鈴木大拙が翻訳に関わったとされる『老子道徳経 中国語 – 英語序文、音訳、注釈』で選んだ「Reason」という訳は興味深い。人間は、そんなものは無いかもしれないと思っていても、根拠を求める生き物だと思う。人間に限らず、あらゆる存在は結果であると同時に原因だと思う。あらゆる存在は通り過ぎていくだけだからこそ、それ自身であることを求める。「Reason」というのは、因果を通底する根拠、といった感覚の訳なのかなと感じる。

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