徳(とく)

立派な人のことを、「徳がある」と表現することがある。義務教育にある「道徳」という科目は古臭いとか、偽善的だと感じる人もいるかもしれない。悪徳業者というと、詐欺的な取り引きを繰り返しているようなイメージを抱くだろうだろう。

「徳」という概念は東洋に限った概念ではなく、西洋にも見られるし、東洋でも仏教思想と中華思想ではそれぞれに用いられ、その意味では東洋思想というわけではない。しかし、中華思想において「徳」が重要な位置にあるということは間違いないので、ここでは中華思想に焦点を当てつつ、徳とは何か、ということを考えてみたい。

道と徳

「道徳」という表現があることからも推察されるように、道と徳は何かしらの関係があると考えられる。天徳に対して天道、人徳に対して人道という表現があることから、両者は関係はあるが、何かしらの内容の違いも有している。(ここで「道徳」と呼んでいるものはあくまで古代の中華思想を源流としたそれを指しており、例えばアダム・スミスの『道徳情操論』にて議論されている道徳など、様々な体系で語られるそれとは切り分けて考える)

 

「道徳」について、僕が個人的に理解しやすいと感じた説明は安岡正篤による以下の一節である。

とにかく「徳」とは「宇宙生命より得たるもの」をいうので、人間はもちろん一切のものは「徳」のためにある。「徳」は「得」であります。それには種々あって、欲もあれば良心もある。すべてを含んで「徳」というのであるが、その得た本質なるものを特に「徳」という。

そして、我々の「徳」の発生する本源、己れを包容し超越している大生命を「道」という。だから要するに「道」とは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以のもの、これなくして宇宙も人生も存在することができない、その本質的なものが「道」で、それが人間に発して「徳」となる。これを結んで「道徳」という。

(中略)道徳というものは、非常に誤解されておりますが、その本義は、単なる動物的生活ではなくて、意識・精神・霊魂を持った高級な人間の生命活動をいうのであって、道徳によって初めて人間は存在し、生活し、発達することができる。肉体で言うならば、飲食や呼吸と同じことであります。したがって生命を抑圧したり、一つの型にはめたりするのは決して道徳ではない。

(安岡正篤  『人物を創る』より抜粋)

「高級な」という件は、やや時代を感じる表現だとは感じるが、概ねの骨子については納得しやすい説明だと思う。世界には、自ずから法則がある。人間に限らず、あらゆる存在はこの宇宙においてはその法則によって存在している。これは理念的な意味に留まらず、宇宙論や天文学、惑星科学の観点からも現在の宇宙はそれが有する法則に依存しており、例えば異なる物理法則を持つ宇宙は我々の宇宙のような形では存在しないと考えられる。

 

我々はその法則、すなわち「道」によって存在しているが、一方で個々の存在が道自体であるかというとそうではない。道によって存在しているが、我々においてはそれが徳という形で発現している。この考え方は、むしろ近代の進化論的な道徳論に近い側面もある。

道から獲得され、発現している性質が徳なのだから、僕たちが普通には好ましいと感じる性質も、好ましくないと感じる性質も「徳」ということになる。

玄徳と明徳

自然にいろいろな性質を見出せるように、人間にもいろいろな性質を見出せると思う。自然であれば創造もあれば破壊もあるし、人間であれば誠実さもあれば狡猾さもある。よりそのままの自然、無為な道を至上とするのが、「玄徳」という考え方だと思う。誠実さも有為であるから、玄徳では特に上位としては置かれない。玄徳という表現は『老子』に見られる。

生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳、

生じて有せず、為して恃まず、長となりて宰たらざる、是れを玄徳と謂う。

(老子  第五十一章)

「生而不有(生み出しても、それが自分のものだと主張しない)」という言葉は、玄徳が考える道の性質の1つだろう。良いものも悪いものもなく、ただそれである自然、それと同一になることを理想とするのが玄徳の考え方だと思う。

 

一方、道が人間に発した徳の中でも、素晴らしい性質に着目し、さらにその輝きを増していこうとする考え方が「明徳」だと思う。明徳という考え方は『大学』(後に特に重要な内容として、朱熹が四書の1つとして抜粋するが、元は『礼記』の一篇)に見られる。

大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善、

大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親しましむるに在り。至善に止まるに在り。

(大学)

明るく、すぐれた性質を明らかにしていく、ということを基本姿勢とするのが儒教的な考え方で、我々が「道徳」という表現で連想するのはどちらかというと明徳だろう。「明」という字は「冏」(ケイ、窓の形)と「月」を組み合わせたもので、窓から差し込んだ月明かりが夜の闇を照らす明るさが原義とされ、明徳の「明」は賢明や聡明という言葉で使われる明の意味に近い。この世界を照らすような徳、暗がりの中で物事を明らかにするような徳が明徳だろう。

 

これは多分に政治・教育の歴史によるところだが、本来の道徳は明徳のみを指しているわけではない。また、儒教的な考え方の中でも、朱熹(朱子学)と王陽明(陽明学)ではスタンスが異なる。陽明学は革命思想の色合いも強いため、我々がいわゆる「道徳」で連想するのは朱子学の影響を受けた考え方であることが多いと思う。

しかし、「徳」という概念を有用に捉えるためには、いくつかの観方を知っていた方が便利だと思う。安岡正篤の『王陽明研究』では、中国思想における二大潮流を「真」と「善」と考え、以下のような例えも引いている。

かりに今周茂叔がその幽潜なる心を以て窓前の草に対してゐるとする。しばらく手をいれなかった庭に草が萋々(せいせい)として生えてゐる。何といふ瑞々しく健やかな、自然の力に溢れた相(すがた)であらう。彼の心境は全く融会して、人と草とここに一である。彼はただ現前の草を通じて宇宙無限の生意を感得する。この時彼において、ああ草が生えて困るとか、こんなに生えては花に悪からう。むしらねばならぬとか、この草をとって鶏にやらうとか、そんな一切の意思は動かない。草は何等彼の目的の俎上に供せられた手段ではなく、真に目的それ自身である。

(中略)これに対して薛侃が花間の雑草をむしってゐる場合を想像する。彼はみづから花を栽培して、暇があれば雑草をかりとるのであるが、またしてもまたしても何時の間にか草が蔓ってならない。或日も彼は例の草むしりしながら、思はず舌打ちして呟いた。「人間の悪もこの通りだ。」

この場合明らかに彼は草と背反してゐる。彼の心はすべて花の成長に注がれて、草それ自身とは何等内面的契合がない。否それに留まらずして草は常に花の成長といふ目的に対する手段として視られてゐる。そこで同じく雑草の繁茂ではあるが、薛侃にとっては「悪」であり、これに反して周茂叔においてはそのことに善もなければ悪もない。一に「真」である。

すなはち善悪は我々の目的と手段との交渉する相対的境地であって、真はかかる境地を超脱した絶対的風光である。善悪の境地は厳粛で峻しいが、真の風光は無碍自由である。

(安岡正篤  『王陽明研究』より抜粋)

「真」は玄徳的であり、「善」は明徳的だと思う。

徳を積む、もしくは無為を為す

玄徳にしても、明徳にしても、それはある性質に向かっていくことだと思う。玄徳ではより自然なものへ向かっていくし、明徳ではより明らかなものへ向かっていく。玄徳においては積むという有為も否定されると思うので、「無為を為す」という表現があるが、ある態度であり続けることが大切だという点は玄徳にも明徳にも共通していると思う。

これは自然についても同様だけれど、個々にとって何が自然なのか、何が調和的なのかというのはそれぞれに異なると思う。ものすごく単純にいうと、自然も人も多様だし、むしろそうであることによって成立していたりする。自分にとっての徳を見つけて、それを積んでいくということができると良いなと思う。その上でなるべくなら、身近な人とはある程度は調和的であれると理想的なのではないかと思う。

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