概念の獲得

5歳の娘にいわゆる「10回クイズ」を出してみると、彼女は(もちろん知識がなくて間違えることはあるけれど)「引っかかる」ことはなくて、妙に関心した。彼女の中では、ある言葉とある言葉が響きであったり、意味であったりにおいて近いか遠いかという概念がまだ弱いので、「ピザ」と「ひざ」を結びつけたりはしないのだろう。

概念とコンポーネント

僕たちはどのようにして、概念を獲得するのか。「獲得」という言葉は、生まれたばかりの赤ん坊は概念というものを持っていないということを前提としていて、それを確信する術はない気がするけれど、少なくとも普通の大人が持っているような概念については、おそらく生まれたばかりの赤ん坊というのは少ない状態にあると思う。

僕たちが普通に扱う概念は、大抵(もしかしたらすべて)は相対的なものである。「熱い / 冷たい」とか、「暑い / 寒い」とか、「大きい / 小さい」という風にわかりやすく相対概念が存在しているものもあるし、「春夏秋冬」や「起承転結」のようにサイクルやフェーズを表現するものもある(四文字熟語である必要はないので、「ピチュー / ピカチュー / ライチュー」でも別に良い)。概念を強固にするために温度や気温、定規や暦(ポケモンであれば、進化)といった、いわばメタ概念が作られていくが、大抵のものの根底には2つとか、せいぜい5-7つを構成要素とするコンポーネントが存在している。人間の指の数である5や10もしばしば登場する。

 

十干十二支の60はその名の通り、10と12に分かれている。12という数字はおそらくとても原始的なもので、太陽が元の場所に戻る周期を、月が元の場所に戻る周期で割ると、おおよそ12になる。また、木星の移動周期は約12年であり、古代中国ではそれと線対象の位置に仮想の星である「太歳」(木星は西から東に移動するが、東から西に移動するとした方が太陽や月をベースにした他のツールと整合が取れる)を置いて、暦を数えたという。実際の起源は複合的なものかもしれないが、十二支は日付の記載に用いられるものなので、いずれにしても暦と関係した所産だろうと思う。12は2、3、4のすべてを約数に持つという性質も相まって、時間や方位にも使われる。十干については原始的には指の数とも関係しているのではないかと思うが、こちらも天体と関係しており、5つの惑星(木星・火星・土星・金星・水星)と太陽・太陰(月)に分解される。陰陽五行思想では、五行(木、火、土、金、水)と陰陽(兄と弟)に対応する。

僕はこういったコンポーネント的な思考が真理だとは思わないが、物事を理解するためには合理的だと思っていて、物事には必ずシンプルなコンポーネントがあるはずだと考えて、現象を観察することがある。これはどちらかというと、「人間はそうとしか認識できない」ということを意味しているし、近代的な発想な気もするので貧相な気もするが、コミュニケーションの面でも便利だと思っている。

記号と概念の操作

人間の頭というのはそれほど高機能でないというか、極めて高機能であるというか、物事をそのまま記憶したり、処理したりはせず、上述のコンポーネント的な発想であったり、扱いやすい記号によって、パフォーマンスを高めている。僕を含めて、多くの人は見たものをそのまま覚えることはできないと思うし、例えばものすごく長い文章や経典を記憶している場合でも、口の動きや耳から入ってくる音、韻であったり、決まり文句やフレーズであったり、文字の視覚的なイメージを組み合わせて覚えているだろうと思う。

小さな子どもであれば、それでも印象に近い形で記憶できるのかもしれないが、脳の柔軟性(という表現が正しいかはわからないが)が失われてくると、記号を用いて現象を代替し、記号を以て概念の操作を行うようになる。簡単にいうと、大人になると理屈っぽくなる。それは一般的には、知能が高くなったと捉えられることもある。

 

チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce)は記号について、

  • icon(アイコン):類似性による記号
  • Index(インデックス):因果性による記号
  • symbol(シンボル):約定性による記号

という分類を提案している。僕の理解では、概念は現象を扱うためのもので、記号は概念の操作性を高めるためのものなので、それぞれの変換に当たり、現象そのものからの距離は離れていく。記号は現象のある側面を抽出して、より一般的で共有可能な操作を可能にするが、何を抽出するか、どういう約束によって記号化するかという点にバリエーションがあるということだと思う。

例えば、燃えている「火」があったとすると、「その火それ自体」は唯一無二の現象だが、一般的な概念としての「火」はアイコンとしては下図のようなイラストで表現できるだろう。火そのものではないが、火が燃えていると温度計の値は高くなるので、「1200℃の高温状態」というのは一種のインデックスになりうると思う。この文章の中では普通に使ってしまっているが、その現象を「火」と呼称・記載する必然性はないので、言葉は約束事によって決まっているシンボルである。

パースの記号論で有名な例では、絵はアイコンだが、写真はインデックスである、というのもある。写真は現象をそのまま切り取っているように見えるし、見た目も似ているが、光の残像なので、現象と因果性で繋がれたものと捉えるのがこの枠組みにおいては正しいとされる。ここでは、記号の性質を深く掘り下げていくことが目的ではないので詳細は置いておいて、僕たちは記号によって概念の操作性を高めているし、そういった操作が巧みな人を賢そうだなと思うということがなんとなく伝わると良いなと思う。

現実と概念

通常、概念の獲得には知能を高めたり、正しく振る舞えたり、間違いを少なくしたりという効果が期待されるし、それはある一定はそうだろうと思う。ただ、冒頭の10回クイズの例においては、おそらく彼女は小学校の中学年くらいで初めてそれらのクイズに遭遇すると、間違えるのではないかと思う。つまり、概念の獲得によって、間違えるという現象が発生する。これはいわゆる「ひっかけ問題」なので、意図的に概念を誤解を引き起こすために利用しているが、知っているが故に物事を見誤るということは往々にして起こるものだと思う。

記号も同様で、もっとも身近で、かつ日常的に起きている問題としては「言葉」がある。言葉によって現象が伝わるというのは一定程度はそうだけれど、言葉なんてものは人それぞれに異なるイメージで用いているものなので、「誤解が生じないように伝えよう」という発想は逆で、「誤解が発生する前提で伝えよう」というのが本来だと思う。もちろん、専門的な職業においては、言葉の使い方に対して幾重にもルールを設けて、そのルール内では「正しく」情報が伝わるように設計されている。ただし、ルールの枠を一歩出ると、そもそも「正しさ」なんてものがないので、必ず誤解を生じるだろう。

 

概念や記号を獲得していくことは、当然に知能と関連しているが、「自分はわかっている」だとか、「自分は正しい」だとか主張する人ほど愚かなものはないと個人的には思っている。概念や記号は道具に過ぎないのだから、その獲得自体が人生の目的になることはないだろうと思うし、もしそうだとすると、現代人の多くはほとんどの過去の偉人より偉大であるということになってしまう。

概念や記号は、とても便利な道具であるが、あくまで道具であって、使い方が大切だろうと思う。そして、概念や記号が上手に使えることと、例えばその人間が魅力的であるかどうかということは、本来はあまり関係のない話である。双方をそれぞれに、高いレベルで身に付けていくことが大切な修練だと思う。

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