中国の春秋・戦国時代は、諸子百家の時代とも言われる。群雄が割拠し、広大な中華の統一のために争いを繰り返す中で、各地の王侯貴族たちは富国強兵の方策と才能を求め、民衆たちは乱世を受け止めて生き延びるための方法と思想を求めただろう。そういう時代の中で、多くの思想・宗教の源流が生まれ、洗練されていったのだと思う。
「天」や「徳」は古くからある中華思想の源流としてとても大切な概念だが、春秋・戦国時代にはより現実的、実際的な方法や思想が求められ、その中には現代の社会生活にも通じるものも多い。今回は我々も日常的に用いている「礼(れい)」と「法(ほう)」という概念を、対比的に取り上げてみたい。礼と法をセットで取り上げるのは、この2つの思想が師弟・兄弟のような関係にあると私が思っているからである。
「礼」とは作為である
孟子の礼には天意の影が残っていて、調和の原則である礼に悖るもの、天意に叛くものに対して征伐、つまり「正しさによって伐つ」ことが許されている感がある。古代の聖王であり、殷王朝を建てた湯は隣国の葛(かつ)から征伐を開始したとされるが、葛の伯(きみ)が礼(祀り)を疎かにし、民を虐げ続けていることを見かねて伐ったとされる。それをきっかけに革命の征戦が始まるが、湯が立ったことに対して『孟子』では、
四海之内皆曰、非富天下也、為匹夫匹婦復讐也、
四海の内みな曰く、「天下をみずからの富となさんとするにあらず。匹夫匹婦のために讎(あだ)を復(むく)ゆるなり」と。
(孟子 滕文公篇 第三下)
と記されている。天は聖人に大いなる任めを降し、試練を与えて志を試し、鍛えて、その達成へと導くという思想が孟子には見られる。
しかし、荀子において礼は天から明確に切り離されて、人間世界の秩序装置のような概念となる。荀子は社会を調和させている礼を、「聖人の偽」とした。荀子の特徴の1つは、天と人を明確に切り分けて、人の世の秩序を作為、人間の業によって作り上げようとした点にあると思う。
ここでいう礼は、その場所、その時代を成立させてきた文脈であり、その文脈を可能にしている作法である。その作法は、深い思慮を持つ聖人の作為によって礼となるが、聖人が作り出す礼はあくまで歴史の中で繰り返されてきた作法であり、その作法は場所や時代によって当然、異なるものということになる。
若夫断之継之、博之浅之、益之損之、類之尽之、盛之美之、使本末終始、莫不順比純備、足以為万世則、則是礼也、非順孰脩為之君子、莫之能知也、
若し夫れ之を断ち之を継ぎ、之を博くし之を浅くし、之を益(ま)し之を損し、之を類し之を尽し、之を盛んにし之を美にし、本末終始をして順比純備せざること莫からしめ、以て萬世の則と為すに足るは、則ち是れ礼なり。順孰脩為の君子に非ざれば、之を能く知ること莫きなり。
(荀子 礼論篇第十九)
凡性者天之就也、不可学、不可事、禮義者聖人之所生也、(中略)凡禮儀者、是生於聖人之偽、(中略)聖人化性而起偽、偽起於信而生禮儀、禮儀生而制法度、
すべて性なるものは天の就(な)せるなり。学ぶ可からず、事とす可からず。礼儀なるものは聖人の生ずるところなり。(中略)すべて礼儀なるものは、是れ聖人の偽に生ず。(中略)聖人は性を化して偽を起こし、偽起りて礼儀を生じ、礼儀生じて法度を制す。
(荀子 性悪篇第二十三)
荀子は明確に、天の性と人の偽は異なるものであると主張しており、礼は聖人の偽であると明言する。この「性偽の別」は、孟子と荀子の最大の違いの1つである。
荀子が生きた時代は、中国全土において戦いが繰り返され、諸国は「正しさ」の名の下に、力を振るっていたはずである。それは現代にも似ているが、その中で天意による征戦を主張するというのは、少し無理があったであろうと思う。社会を調和させ、その可能性を持続させる装置が礼だとした時に、その装置の在り方はいくつもある。それはつまり、正義はいくつもあるということでもある。
正義は人の作為したものであり、天が命じるものではない。そうでなければ、戦乱という現実を説明できない。そういうきわめて現実的な視点が荀子にはあると思う。
強い秩序装置としての「法」
礼は規範であったり、ルールであったり、そういったもので社会を持続させようとする思想であり、身体や感情に根差した、人間を内から規定する弱い秩序装置である。それに対して、法は人間を外から規定する強い秩序装置を目指した思想だと思う。
荀子の礼がどうして弱いかというと、それがあくまで人の作為によるものである、という点に要因があると思う。人が作ったものは、どうしても人に批判されてしまう。礼には(それがたとえ聖人であったとしても)人を超えた権威が無い。孔子から続く儒学は、どちらかというと人間の可能性に着目していて、天の存在を根源として認めるが、そこから発した徳や礼においては人間中心だと思う。孟子の性善説にしても、荀子の性悪説にしても、人間の可能性を信じている。
一方、韓非子は強い秩序装置を構築するために、老子と荀子を融合させて、強化する。『韓非子』にある「解老篇」、「喩老篇」は(韓非子自身の著作かどうかは別にして)歴史上でもかなり早い時期の『老子』解説と言われており、司馬遷の『史記』でも老子と韓非子は「老子韓非列伝」としてまとめられている。
老子の思想の特徴の1つは、自然の秩序と人間の秩序の連続性である。人間の理想的な姿は、自然そのものと一体になることであり、人間は自然に従うことがよいとされる。つまり、人間は内からではなく、外から規定された存在であり、自然に対して人間は平等である。
聡明睿智天也、動静思慮人也、人也者、乗於天明以視、寄於天聡以聴、託於天智以思慮、
聡明睿智は天なり。動静思慮は人なり。人なる者は、天の明に乗じて視て、天の聡に寄りて聴き、天の智に託して思慮す。
(韓非子 解老第二十)
その点において、自然に対する理解をしながらも、あくまで人間や社会の在り方を描こうとする儒学とは一線を画すと思う。
古代中国では、礼法は庶民を縛らず、刑罰は大夫を縛らないという考え方がある。(「大夫」は治める土地を持つ貴族。大夫に仕える「士」の階級には、礼法も刑罰も適用されたよう)
禮不下庶人、刑不上大夫、
礼は庶人に下らず。刑は大夫に上らず。
(礼記 曲礼上第一)
しかし、法家の法は、貴族にも庶民にも等しく適用される。自然がそうであるように、法は超人間的な存在であり、法に対して人間は平等である。韓非子は、実証が困難で他者を従わせる根拠に欠ける礼の弱さを、絶対的で超越的な法によって乗り越えようとする。もちろん、この考え方にも欠点や歪みはあるが、法によって初めて中華全土における中央集権国家が成立したという事実はとても大きいと思う。
司馬遷の『史記』において、韓非子は李斯(始皇帝の臣であり、後の秦の丞相。讒言によって韓非子を服毒自殺させた人物とされる)とともに荀子について学んだとされる。その真偽は不明だが、人が秩序を生み出す「礼」というアイデアをベースに置きながら、それを超人間的な権威に高めたという点で、韓非子が荀子の影響を受けている可能性は十分にあるようにも思う。
なお、儒家と言ったときには孔子、孟子、荀子は何かしらの繋がりを持った思想潮流に属しているのだと思うが、法家に分類される商鞅や申不害、韓非子は必ずしもそうではない。つまり、法家が法家を受け継いでいるかというと、必ずしもそうとは言えないようである。
韓非子についても、中央集権的な統治機構を構想するにあたって、「法」という概念や、根本的に異なる部分をもつ荀子と老子などを巧みに配置しながら、その思想を練り上げていったと想像される。その上で、天と人を切り離し、人の秩序を人が構想するというアイデアは荀子の発明の顕著なものであると考えると、やはり「礼」と「法」は師弟、兄弟のような関係と言えるのではないかと思う。