日本のことを古く和(倭)国とか、大和(やまと)とか呼ぶことがある。そして、日本式の風習を「和風」と言ったり、日本式の衣服を「和服」と言ったりする。この「和」という概念について、なんとなく日本という国なのか、地域なのか、文化なのか、精神なのか、そういったものにおける本質的な感覚の1つなのではないかということを思った。
「和」というのは必ずしも東洋概念というわけではないかもしれないが、漢字で「和」と記すのは東洋に特有のものだと思うので、いったんはこの文字で表現されてきたものについて考えていきたい。この文章は東洋における「和」を網羅的に検討したものでもなければ、日本における「和」の起源や精神を体系化したものでもないけれど、私の中に生じた感覚の根底にあるものを少しでも言葉にしてみたいということで、文章を書きたい。
「倭」について
前提として、日本と「和」という呼称を対応づけた根本には、古代中国において東方の海の先にある異邦の地を「倭」と呼んだことがあると思われる。
古代中国では、文明の始まりであり、文化の中心である中華(地理的な中心としては中原)に対して、そこから離れた土地にいる異邦人、異民族を方角ごとに呼び分ける。東西南北に対して東夷、西戎、南蛮、北狄の大きく4つに区分され、戦国七雄にも数えられる秦は古来の中華の人々から見ると戎、楚は蛮に近いということになる。中世日本において大航海の末に渡来したヨーロッパ民族を「南蛮人」と呼んだことも、彼らが日本を訪れる際に(航路的な制約によって)南からアプローチしてくることに由来する。
そして、中華から見て陸続きではない、東の海を超えた先にいる異民族のことは東夷の中でも特に倭人と呼ばれた。「東洋(The East)」という言葉が、元はヨーロッパの人々が自分たち(西洋)以外のものをひとまとめにして指し示すために用いた言葉であったように、東の海の先にいる人々はまとめて倭人であり、その地は倭であった。
ちなみに、当時の日本列島にいた人々が倭人と呼ばれたり、その地が倭と呼称されていたりしたことは信憑性がありそうだが、倭は日本列島やそこに住む人々のことだけを指していたわけではなく、また、「倭」という言葉や民族が何を起源としているのかについては諸説あるようである。このあたりははっきりしないところなので立ち入らず、ここでは日本列島に住んでいた倭人と呼ばれる人々に限定して、話を進めていきたい。
倭人に関する古い記述は3世紀末頃に書かれたとされる『三国志』の「魏書」に含まれる烏丸鮮卑東夷伝の倭人条(いわゆる『魏志倭人伝』で、3世紀前半の邪馬壱国の卑弥呼による魏への遣使などに関する記載)や、5世紀に書かれたとされる『後漢書』の東夷列伝(1世紀半ばの倭奴国、2世紀の倭国大乱などに関する記載)、1世紀に書かれたとされる『漢書』の地理志などに見られるという。
当時の日本には独自の文字の記録は無く(少なくとも確かなものは現在まで発見されておらず)、日本の古代史はしばしば中国の史書を繋ぎ合わせて解釈される。いわゆる「倭人」の初出とされる『漢書』には「樂浪海中に倭人有り。分かれて百餘國と為る」とあるが、1世紀にはある程度の規模の国が生じ、奴国王が後漢の光武帝に朝貢。その後、2世紀頃に大乱が生じて、最終的に女王である卑弥呼が王位につくことで乱を治めたとされる。卑弥呼の没後も乱が生じ、台与(壱与)の即位によって治められる。その後はしばらく史書に倭に関する記載は現れず、『宋書』において5世紀頃の倭の五王が登場する。
「倭」の字源を白川静の『字統』から引いてみると、
声符は委。委は稲魂を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう。
(白川静 『字統』より抜粋)
とある。また、『説文解字』には「順(したが)うかたちなり」とあり、古訓にはオモネル、ヘツラフ、ユヅルといった例が『名義抄』に見られるという。基本的には中国や朝鮮といった大陸から見た際の蔑称だが、風俗や性質とも関連があるのかもしれない。
当初、日本の人々は自らも「倭人」と称していたが、大陸の文化や文字に関する知識を得るに従って、また、国としての規模や制度が整うに従って、蔑称である「倭」を避けて好字である「和」を用いるようになったようである。「倭」はもとはヤマト(王朝の中心があった地の名称)と読まれ、好字を重ねて大倭、大和となる。同時に日本という名称が8世紀頃までには成立していたようで、『元史』には「其の旧名を悪(にく)み、故に名を日本に改む。其の国、日の出づる所に近きを以て也」といった記載がある。
和なる者は天下の達道なり
「和」というものが日本において大切な概念ではないかという感覚がこの文章の起点なので、呼称に関する話はいったん置いて、ここからは中国の古い用法をいくつか見ながら、「和」がどういうものであるのかというところを考えていきたい。
まず、「和」という文字の成り立ちについては、
禾と口とに従う。禾は軍門に立てる標識の木の形。左右両禾は軍門の形。口はサイ、盟誓の書である戴書といわれる文書を収める器の形。軍門の前で盟誓し、和議を行う意である。ゆえに和平の意となる。
(白川静 『字統』より抜粋)
「サイ」に基づく解釈は白川静に特有のもので、一般的には「口」と「禾」を合わせた形声文字とされるが、いわゆる相和する場合には「龢」の字が使われており、軍門の脇に盟誓の書を置いた「和」と、農耕(「禾」は穂先の垂れた稲)の儀礼に笛(「龠」は3つの孔が空いた竹笛)による音楽を添えた「龢」は異なる字であると白川静は説明している。
「龢」は奏でられた音楽の調和することから、「調(ととの)うなり」とされる。これらの字は早くから混同されたようで、いずれの字も現在は「和」と表記されるため、私たちが普通に使う場合にはどちらの意味も含まれていると捉えるのが良いように思う。字義としては「やわらぐ」「なごむ」「ととのえる」「あわせる」といったものが含まれる。
「和」というものが、概念としてはどういうものかと考えていくと、例えば、
喜怒哀楽之未発、謂之中、発而皆中節、謂之和、中也者、天下之大本也、和也者、天下之達道也、致中和、天地位焉、萬物育焉、
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中(あた)る。これを和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。
(中庸)
とあり、『中庸』では和を「天下の達道」とし、非常に高い徳として説いている。
現実の社会では、常に人の喜怒哀楽というものがある。それはどんな人にもあって、まだ発せられていない状態を中とし、天下の大本とする。「天下の大本」というとわかりにくいが、天下を動かす大本となるエネルギーといった感覚なのではないかと思う。そして、自身の喜怒哀楽、他者の喜怒哀楽に対処していくのに「和」が発揮される。
その理想はどういうものかというと、適切に喜怒哀楽が発せられる状態だという。喜ぶべきを喜び、怒るべきに怒り、哀しむべきを哀しみ、楽しむべきに楽しむ。人は我執に囚われるからなのか、これがとても難しいと思う。自身のプライドが邪魔をしたり、他人から批判されるのが怖かったりして、喜べなかったり、怒れなかったりする。哀しみすぎたり、楽しみすぎたりする。
そういう不自然さは長い目で見ると、人の心を蝕んでしまう。「皆節に当たる」というのが、調和に繋がっているのではないかと思う。
『論語』には、
君子和而不同、小人同而不和、
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
(論語 子路第十三)
という一節があるけれど、君子と小人という対極的な概念を引くことで、「和する」と「同ずる」とはまったく違うということが強調されている。人や物事がともにあるという点では和も同も似ているが、その内容は本質的に異なる。「和を重んじる」ということと、全体主義的な同調圧力がときたま並列に語られるが、それらはまったく異なる、むしろ正反対にあるものと個人的には思っている。
少し脱線してしまうけれど、「和する」と「同ずる」の違いは、ハンナ・アーレントの「孤独(solitude)」と「独りぼっち(lonly)」に通ずるところもあるように思う。
独りぼっちであること(ロウンリネス)は孤独 solitude ではない。孤独は独りきり(アロウン)でいることを必要とするのに反して、独りぼっち(ロウンリネス)であることは他の人々と一緒にいるときに最もはっきりとあらわれてくる。
(中略)孤独な人間は独りきりであり、それゆえ「自分自身と一緒にいることができる」。人間は「自分自身と話す」能力を持っているからである。換言すれば、孤独においては私は「私自身のもとに」、私の自己と一緒におり、だから<一者のうちにある二者>であるが、それに反して独りぼっちであること(ロウンリネス)の中では私は実際に一者であり、他のすべてのものから見捨てられているのだ。
(中略)独りぼっちであること(ロウンリネス)をこれほど堪えがたいものにするのは自己喪失ということである。自己は孤独の中で現実化され得るが、そのアイデンティティを確認してくれるのは、われわれを信頼してくれ、そしてこちらからも信頼することができる同輩たちの存在だけなのだ。独りぼっち(ロウンリー)の状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼というものを失う。人間が経験をするために必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が、思考と経験を行う能力が、ここでは一挙に失われてしまうのである。
(ハンナ・アーレント 著、大久保和郎・大島かおり 訳 『全体主義の起源』より抜粋)
これは多分に西洋的な考え方だとも感じるが、人は基本的には孤立している。人をそれ単独で考えてみると、空虚な存在だと感じてしまいやすい。他人と比べないと、自分が何者であるかのきっかけを掴むことすら難しい。1人ではほとんど何もできないし、他者から拒絶されてしまえば、精神的にも物質的にも窮地に陥らざるを得ない。
しかし、人には自分と対話する能力が備わっている。むしろ、自己との対話は思索や創作には不可欠なものである。同時に、人には他者との対話も開かれている。自己との対話(思考)と、他者との対話(経験)の行き来に人間の可能性の広がりがある。
独りぼっちになって、自分も他者もわからなくなると、怖くなって周囲に合わせるしかなくなる。そこでは開かれた経験というものが失われてしまい、人は意思を持てずに同調し、生活からは自由が失われてしまう。
孤独というのは、自己と向き合うことである。空虚に感じる内面を見つめ続けることで、自己の存在を探り、ぼんやりとしている観念を明らかにすることを試み、自己の在り方を現実の下に実現することであると思う。そして、自己を自覚して初めて、人は他者との調和へと歩める。調和には、自己と他者への信頼が必要であり、そのためには深い自覚が必要である。この信頼によって、天下の達道も実現するのではないと思う。
和を以て貴しと為す
日本に対する蔑称として与えられた「倭」は、その文化のかなり初期の時点で「和」という形で本質の近くに据えられたように感じる。『日本書紀』に記される、いわゆる十七条憲法では、冒頭に「和」の概念が置かれている。
一曰、以和為貴、無忤為宗、
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。
(日本書紀 巻第二十二 推古天皇)
『日本書紀』には、『隋書』に記載されている第1回の遣隋使の記録が無いが、『隋書』では西暦600年に当たる年に倭国から使者が来たと記録されている。その際に、以下のようなやり取りがあったという。
上令所司訪其風俗、使者言、俀王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政跏趺坐、日出便停理務、云委我弟、高祖曰、此大無義理、於是訓令改之、
上、所司をして其の風俗を訪ねしむ。使者言う、「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天が未だ明けざる時に出でて政を聴き、跏趺して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云ふ」と。
高祖曰く、「これ大いに義理無し」。是に於いて、訓して之を改めしむ。
(隋書 倭国)
この時代の倭国では推古天皇を戴き、甥である厩戸皇子(聖徳太子)が政務に当たっていたとされる。使者の説明では兄と弟となっているが、実際には伯母と甥であり、使者の説明は推古天皇が祭事を司り、細かな政務は厩戸皇子に委ねていたということだと思われるが、女王であることを隠して説明したことも災いして、文帝には不合理だと断じられたのであろう(文帝を欺いたことに加えて、女王を戴いていることを説明すれば、さらに見下されるであろうため、使者としても苦慮しただろうと思われる)。
それが理由かどうかはわからないが、『日本書紀』にはこの記録は無く、小野妹子が派遣された607年の第2回の遣隋使から記載が見られ、その直前に冠位を定めたり、十七条憲法が制定された旨が記載されている。
『隋書』と『日本書紀』の記載を合わせると、文帝に未開を指摘された倭国は国政の改革を急ぎ、大陸の文化、すなわち漢籍や仏典を学んで、日本という国の在り方、そのプロトタイプを構築したのではないかと思う。第2回の遣隋使の書簡に見られる、「日出処」「日没処」という有名な表現も方角を表す仏教用語であり、書簡の主が仏教に通じていることを伝えることが狙いと思われる。
なお、この書簡に対して煬帝が不快を示したという記述が『隋書』に見られるが、その理由は父親である文帝を指す「菩薩天子」への書簡であったこと(煬帝も仏教を治国に利用したが、父の文帝とはスタンスが異なり、中国の記録では煬帝に対して菩薩天使の呼称は使われない)、朝貢国である倭国の書簡の主が「王」ではなく「天子」と称したことにあるとされる。
煬帝の反応はさておき、倭国の当時の最大の問題意識は隋という中華の大国に対する遅れにあったであろうから、そのアプローチはいかに隋の学問を学び、同等の水準で倭国の制度を整えるかという点にフォーカスが置かれており、遣隋使の書簡にもその痕跡が感じられる。それは十七条憲法においても同様で、具体的には儒学、老荘、仏教の三教一致を目指したことが十七条憲法には見られるという。
実際に十七条憲法は、さまざまな漢籍や仏典を出典としており、やや繋ぎ合わせの文章のようにも感じるところもある(それは『日本書紀』や『古事記』でしばしば見られる傾向で、天地創造や伊弉諾命の禊行にも、漢籍からの引用や転用に思える表現が見られる)。
しかし、その中でも、日本特有の課題や文化に根差したものがあるはずである。少し安直かもしれないが、第一条に置かれた「和を以て、貴しと為す」にはその想いが込められているのではないかと思う。少なくとも、後世の人が十七条憲法を読む際に、もっともよく目に留まったであろうこの一節は『礼記』に見られるもので、
禮之以和為貴、
礼は和を以て貴しと為す。
(礼記 儒行第四十一)
という「礼」の説明から採られている。『論語』にも「礼の用は、和を貴しと為す」とあり、同じく礼に関する記述である。それを冒頭に置くということは、倭国は和の国であり、礼を実践していくということを宣言しているように私には思える。
梅原猛は十七条憲法に対して、仁(和)を原則論として最上位に、礼を組織論として第二階層に据えた五重塔的な徳目の整理を試みて、聖徳太子の思想を読み取っている。また、中村元は仏教の「和合」という共同体の在り方を目指したものであると解釈する。
サマヴァーヤ – 和合、仲良くするということを、アショーカ王が強調した。これが仏教にもとづいていることは、いうまでもない。
この和の思想が、憲法十七条全体を通じて強調されている根本のものである。「和」が説かれているのであって、単なる従順ではない。ことを論じて事理を通じさせる。議論そのものが、互いに会話というか、協和というか、その気分の中で行われる。
(中略)和の観念が、儒教から受けたものであるという解釈もなされており、『論語』に『和するを貴しと為す』という句がある。ただ、『論語』のその箇所では、主題が礼であり、和ではない。ところが聖徳太子の場合には、人間の行動の原理として和を唱えている。つまり太子が、礼とは無関係に、真っ先に和を原理として掲げている。これは実は、仏教の慈悲の立場の実践的展開を表しているものだといえる。
(中村 元 『聖徳太子』より抜粋)
それぞれの詳しい検討は、梅原猛の『聖徳太子』、中村元の『聖徳太子』にある。梅原猛は学術的には扱いが難しいところもあるだろうし、中村元についても専門の考え方からすると学問的に正統な解釈とは捉えられていないかもしれないが、それぞれに思想を以って描かれていて、興味深いと感じる。
聖徳太子については、1人の人物であるのか、そもそも実在したのかについても議論があるし、十七条憲法のすべてが600年代の初期に完成していたかどうかもわからない。なぜ倭国が「和」を国づくりの最初に置いたのかについても、理由も解釈もたくさんあるだろうと思う。個人的には、「倭」を「和」に置き換えることで、自分たちの民族としてのオリジナリティを主張しようとしているとも感じるし、第一条はやはり礼も意識した表現で、礼も日本の感性においてはかなり核にあるものではないかと感じる。感情の渦巻く現実においては、和は礼によって初めて可能になるようにも思う。『礼記』の説明では、和と礼は互いに手段であると同時に、目的であると取れる。
そういった複層的なものを包含しながらも、日本の根底に置かれる気分が「和」ということなのかもしれない。
「和」の効用についても、さまざまな側面があると思う。『孟子』には、
天時不如地利、地利不如人和、
天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。
(孟子 公孫丑下)
という一節があり、和が戦略論、戦争論としても登場する。和していなければ親族でさえ裏切り、和していれば天下でさえ味方につくという。孟子はやや理想論に過ぎたり、傲慢さを感じてしまったりすることもあるが、なるほど、和の性質をうまく表現していると感じる。
こうして少し考えてきてみて感じたことは、無理なく互いを思いやり、敬意をもって、仲良くすること。そのために、自覚を持って、礼というものを大切にすること。迎合したり、阿ったりするのではなく、自律した調和を求めること。そういうものを大切に思う気分を、私は「和」から感じ取っているように思う。