東洋には哲学がない、ということは繰り返し論じられていることだと思う。それはもちろん、近代西洋的な意味での「哲学」というものに対しての議論であるという側面はあるが、そのような主張には、そう主張される理由もあると思う。
同時に、私自身は東洋の辺境の人間として、そうではないのではないか、と主張したい気持ちもある。東洋には東洋の方法があり、私の考え方や在り方は、そのような方法に基礎づけられているように思う。東洋という言葉が指す範囲や文脈は非常に広く、私がなんとなくでも理解を試みることができるのは、日本と中国くらいだし、それぞれについても到底、網羅的に検討することはできない。
しかし、この問題は私の関心のかなり中心にあるものでもあるし、いくつかの書物を刺激に考えをまとめてみたい。取っかかりとさせていただいたのは、中村元の『日本人の思惟方法』、『シナ人の思惟方法』、『インド人の思惟方法』、鈴木大拙の『東洋的な見方』、中島隆博の『中国哲学史』、ユク・ホイの『中国における技術への問い』などである。
東洋哲学の発見と疎外
中島隆博の『中国哲学史』によると、西洋思想が中国思想に出会った当初においては、西洋とは異なる中国の在り方は1つの成果として認められていたようである。
ライプニッツは二十歳ぐらいから、中国に行った宣教師たちが持ってきた資料を読んでいたし、最晩年に Discours sur la theologie naturelle des chinois(直訳すると『中国人の自然神学論』[一七一四])を書いたことからもわかるように、中国に生涯関心を抱き続けた。そして、キリスト教のような啓示神学、つまりこの世界を創造する創造主としての神に基づかないような「自然神学」を中国に見ようとしたのである。
(中島隆弘 『中国哲学史』より抜粋)
ライプニッツの生きていた時代に、『中国の哲学者 孔子』(一六八七年)という本が出版されている。原題が Confucius Sinarum Philosophus とあるように、孔子を Confucius としてラテン語の文脈で理解しようとしており、さらに「中国の哲学者」として扱おうとしているのがよくわかる。無論、当時の「哲学者」がその後の近代的な大学制度における哲学者と異なるとしても、「中国に哲学はない」という言明を容れる余地など、この時代にはなかった。
(中島隆弘 『中国哲学史』より抜粋)
ニコラ・フレレは諸地域の神話研究で知られていると同時に、中国語研究を行なった最初期の学者であった。フレレにとって、中国は、神なしでこの世界の秩序を維持しうる場所であった。十八世紀後半になるとイマヌエル・カントが『啓蒙とは何か』(一七八四年)において、「宗教を脱した成年状態」を啓蒙の到達点だと述べたが、すでに十八世紀前半において、中国はそのようなものとして表象されていたのである。
(中島隆弘 『中国哲学史』より抜粋)
神に対する主張や立場は細かく論じることは難しいが、神学における異なる極としての在り方、また、神から離れた理性をヨーロッパの理性に引きつけて解釈するための根拠として、「中国哲学」には一定の役割や意味が与えられている。
中国哲学をヨーロッパの理性の中で捉えようとする傾向はその後も続く(例えば、老子の「道」はプラトン派が論じた「理性」と対応しているといった解釈も見られたよう)。そして、ある意味でその傾向の結果として、18世紀の半ばになると中国の在り方は進歩を欠いたものと評され、19世紀頃には哲学の面からはもちろん、歴史の面においても考慮するに及ばないとまで断じられるようになる。
中島隆弘の『中学哲学史』では、十八世紀のドニ・ディドロの『百科全書』の「中国哲学」(一七五三年)の記述を引いて、
ここで展開されている、「東洋の精神は、静かで、怠惰で、本質的な必要に閉じこもって、自分たちが打ち立てたと思うものにとどまっていて、新しさに欠けている」という見方は、その後の十九世紀から二〇世紀にかけての中国イメージを決定づけるようなものだ。
(中島隆弘 『中国哲学史』より抜粋)
と記載されている。さらに、十九世紀に入って以降、ヘーゲルが展開した哲学史の講義を引きながら、「中国哲学」が哲学から疎外されていく流れの1つを描いている。
十八世紀半ばは、それ以前の中国がヨーロッパに発していた原理的な問いを手なづけ、ヨーロッパの啓蒙の言説に組み込むようになっていたのである。
十九世紀になるとその傾向はさらに強まり、とうとう中国は文明において劣ったものに置かれるようになった。その典型をヘーゲルの議論に見ることができる。
(中略)ヘーゲルにとって『論語』は通俗道徳にすぎず、孔子もまた「思索的な哲学は全くなく」と、哲学者から外される。ヴォルフの「実践哲学」がここではまったく否定的な意味でしか響いていない。ヘーゲルは中国哲学の価値の切り下げを徹底して行なったのだ。
(中略)カントと異なり、ヘーゲルは歴史をギリシアから始めるのではなく、中国から始めている。ところが、その中国は「歴史」に値する変化がなく、永遠に同じものを再現しているために、インドとともに「いまだ世界史の外にある」として、歴史から放逐されるまでに至った。カントが述べたように、「挿話的に」世界史に付け加える必要すらない。
(中島隆弘 『中国哲学史』より抜粋)
ここで論じられているのは、ある程度はヘーゲルの弁証法的な考え方からの視点で、矛盾からのアウフヘーベンを進歩として実現する主観と客観を欠いて、古代からその基本システム(天、徳、礼など)に変化をもたらせていないという点が、その主張の根拠のように感じる。当初は一目置かれた特徴がそのまま、中国の劣った部分として取り上げられるようになっている。
このような評価の変遷は欧米列強のアジア支配と関連しているという面もあるとは思うが、当然に西洋における思想・哲学の発展と連動しているとみるのが妥当だろうと思う。細かな議論は無数にあると思うが、いわゆる西洋における近世の始まりは世界を神から人間に取り戻したことに拠っており、そのきっかけは古代・古典(キリスト教以前)の復興運動であるルネサンスとされる。つまり、西洋の近世は衰退してしまった古代の偉業を取り戻すという運動を起点としているという面がある。その視点で中国思想との出会いを捉えると、古代の理想を繰り返し洗練させながら、神なしで秩序を維持している中国の在り方に意味を見出したのは自然なことだろう。
しかし、ルネサンス期に復興・発展した数学や幾何学の影響もあり、その後の西洋は「理性の時代」へと進み、批判哲学が生じ、政治や経済も巻き込みながら合理主義、功利主義、実用主義といったものが台頭する。起点は古典だった西洋の近世は、いわゆる近代へと推し進められたのである。
欧米列強の政治的、経済的な優位はアヘン戦争で1つの到達点を迎え、ここにおいて、中国はテクノロジーに対する誤解によって、その思想の根幹を脅かされることになったとユク・ホイは記している。
近代中国史における決定的な瞬間は、十九世紀なかばの二度のアヘン戦争とともに訪れた。この戦争で清王朝(一六四四 – 一九一二年)はイギリス軍に全面的に敗北する。そして中国は西洋列強の準植民地と化し、近代化へと駆り立てられていったのである。中国人は、敗北のおもな理由のひとつはテクノロジーの競争力がなかったためと考えた。そのため、かれらは中国と西洋列強の不平等な関係を終わらせたいと願いつつ、とにかくテクノロジーの発展をつうじた急速な近代化が必要だという焦燥感を抱いていた。ところが中国は、当時有力だった改革主義者が望んでいたような仕方では、西洋のテクノロジーを吸収できなかったのである。それはおもに、テクノロジーに対する無知と誤解のためだった。改革主義者たちは、テクノロジーを単なる道具と理解し、そこから中国の思想 — つまり精神 — を切り離すことができるだろうという、いま考えるとかなり「デカルト的」に見える信念を抱いていたのだ。言い換えれば、それはテクノロジーという「図」を輸入、実装しても、中国思想という「地」は影響を受けず無傷のままでいられるという信念である。
だがその反対に、結局テクノロジーはその手の二元論を残らず打ち砕き、みずからを図というより地として構成してきた。
(ユク・ホイ 『中国における技術への問い』より抜粋)
もちろん、中国もその状況に対して反省を繰り返してきたが、ユク・ホイは、ここ数十年の中国における急速な経済とテクノロジーの発展が、忘我と熱狂を生じさせ、反省を無力化し、中国を未知の方向に推し進めて、果ても行き先も見えない大海の真ん中に置こうとしていることを懸念として記している。
現代思想の状況を見ると、近代化の行き詰まりを解決するコンセプトとしてポスト・モダンが構想されてから久しいが、その試みは少なくとも決定的な成功には至っていないように感じる。多元的、多価的、多極的、そして中心が無限にあるような世界に対峙する方法として、また、なによりも中国のために、テクノロジーの視点から問いを投げかけようとしているのがユク・ホイのような哲学者なのではないかと感じる。
ここでは中国の思想・哲学に対する西洋の反応を取り上げたが、その他の東洋思想・哲学に対する西洋からの批判についても、ある程度は近い構造を見出しうるのではないだろうかと思う。
東洋的な方法
ここからは、中村元の著作を頼りに、それぞれの地域の思惟方法の特徴をざっと見てみたい。中村元の専門はインド哲学や仏教なので、もちろん、それとの関連の中での捉え方という面はあるが、ヒントになるものが見出せればと思う。
まず、中国については『支那人の思惟方法』において、
- 具象的知覚の重視:文字を始め、概念が具象(特に視覚的表象)と紐づいている傾向
- 抽象的思惟の未発達:表象を重視することによる、普遍概念や法則的理解の欠如
- 個別性の強調:抽象的・一般的なものを嫌悪し、普遍性より個別性を重視して具象的・直観的な説明を好む傾向
- 尚古保守性:諸々の事象を静止的に把捉し、古代に形成されたものを変化・発展させない傾向
- 具象的形態に即した複雑多様性の愛好:感覚的特殊性や知覚表象を信頼し執着して、多様性に敏感な傾向
- 形式的斉合性:古典に対して歴史的・発生的あるいは批判的に見ず、論理的連関を深く考えずに、外面的な形式上(字句)の斉合性を主目的とする傾向
- 現実主義的傾向:人間を中心として考え、抽象的観念をも人間に関係のあるものとして理解する傾向
といった点が挙げられている。ヘーゲルが「通俗道徳」と断じ、「永遠に同じものを繰り返している」として哲学から除外した思考性質に通じるものもあるけれど、具象と直観、現実の複雑多様性を愛する点は、中国思想の魅力だと個人的には思っている。
また、インドについては同様に『インド人の思惟方法』において、
- 普遍の重視:個別あるいは特殊より普遍を重視し、個別あるいは特殊を普遍に属する一例として理解する傾向
- 否定的性格:特殊でないもの、規定されないものを好み、未知や未限定なものに注意を向け、否定的把捉に頼ろうとする傾向
- 個物および特殊の無視:個別や特殊を成立させている特殊性を無視し、特殊が担う普遍に注視して、特殊をひとつの迷妄とする傾向
- 万物一体感:変転動揺する個別相および特殊相を無視し、現象の個別意義を喪失させ、個別がになう価値の固定的意義を無視して、あらゆるものを一如とする傾向
- 静止的性格:変化よりもむしろ変化を通じて持続するものに注視し、動的なる作用よりも静的なすがたに留意する傾向
- 人格の主体的把捉:対象を客体化・対象化することを好まず、その主体的意義を生かそうとすると同時に、主体を客体的概念として把捉することを避ける傾向
- 個我に対する普遍我の優位:自我あるいは自己を、他の自我あるいは自己との対立を呈示しない行為主体とすると同時に、他人と自己とを連続的に融合しているものと思いなす傾向
- 普遍者への随順:行為の問題に関して自我没入的であることによる、個人的な行為主体の動作よりも、個体を超えた大きな力を重視する傾向
- 対象的自然界からの疎外:自我(行為主体)と自然環境との対立に関する自覚の希薄さと同時に、現実と理想、また事実と空想との区別を十分に意識しない傾向
- 内向的性格:精神的・内面的・主観的な分野を研究する学問、言語学および反省的な心理学の発達
- 形而上学的性格:日常的の末端にいたるまで、宗教的色彩が濃厚で、宗教による規定・支配が見られると同時に、現世超越的、神超越的な傾向
- 寛容宥和の精神:形而上的一元論的立場から観照反省し、あらゆるものは絶対者にその根拠を有するものであると考えることで、それぞれの世界観・哲学説ないし宗教に、その存在理由を認めようとする傾向
といった点が挙げられている。不勉強ゆえ、インドの思想や風俗についてはまったく感覚がないのだけれど、インドの不思議に混沌でありながら、それをそのまま受け入れているような印象や、「ゼロ」や「空」(サンスクリット語では、いずれもスーニャという同じ単語が当てられる)という概念の発祥、徹底的否定に基づいた絶対的肯定による世界の受容は、間違いなくインドの深い哲学的性質の所産であると思う。
続いて、『日本人の思惟方法』を引くと、
- 与えられた現実の容認:生きるために与えられている環境世界ないし客観的諸条件をそのまま肯定し、現象世界をそのまま絶対者と見なそうとする傾向。同時に寛容的・包容的で比較的、摩擦を起こさずに種々の外来文化を摂取し、文化の重層性を有して対決批判の精神の薄弱である傾向
- 人間結合組織を重視する傾向:人間を孤立的な個人と見なすのではなく、個人と他の個人との間柄、関わり方を重視する傾向。相互の主体的連関が特に注意され、主体のあいだの相互了解と相互信頼にもとづいて行動がなされる傾向
- 非合理主義的傾向:理解および表現がかならずしも論理的・可計測的であることを目指さず、むしろ直観的・情緒的であることを目指す傾向。結果として、論理的斉合性ある首尾一貫した思惟作用がはたらかない傾向。また、単純素朴な表象を愛好し、複雑な想像力に欠ける傾向
- シャーマニズムの問題:批判対決の精神の薄弱によって、素朴な生活様式や原始的な思惟方法に徹底的な批判がなされず、結果として古代宗教におけるシャーマニズムが現存し、折に触れてあらわれる傾向
といった章立てとなっている。日本人は、と言ってよいのかはわからないけれど、私の感覚としては、合理的であることより現実が実際にどうであるか、関わり合いにおいて調和的であるかどうかということを重視する傾向があるように思う。日本人の断定を避ける傾向は、中国などの同じアジア圏の人々からも指摘されることだが、正しさや論理的な整合より、相手と主張や感情を共有できるどうかに重きをおくところからきていると感じる。
現実において、調和は必ずしも合理的でない。調和を重視した結果、あまりに非合理に現実を容認してしまうところは欠点でもあるが、調和のために要求される構造が合理的である場合には、発想や結束が強い力になることもある。このあたりの微妙さが、日本の分かりづらさでもあると感じる。
似たような語句を用いた説明であっても、当然、それぞれに異なる思考様式・形式であるということは承知した上で、中国の「具象を好み、現実の複雑さを愛し、抽象・一般を嫌う傾向」と、インドの「普遍を好み、個別が担う特殊や意義を無視する傾向」は、相反するものを感じる一方で、「客体視・客観視を好まず、自然や抽象的観念であっても、人間的・主体的に捉えようとする傾向」は、似ている面もあるように感じる。
日本人が現代においてもアミニズム的な感性を比較的、強く持ち続けていることも何かしら通じているのかもしれない。
また、東洋の特徴として、鈴木大拙なども取り上げる「不二性」というものがあるが、これは仏教的な「主客未分」ということにとどまらず、具象と現実の複雑さを愛するという面からも捉えることができるように思う。物事や事象をはっきりと切り分けずに、そのままに受け止めようとする傾向が東洋にはあるように思う。
「きっちり分ける」ということをあまりせず、あらゆるものに共通したものを見出そうとしたり、一方で、刻一刻と姿を変える多様な現実を愛して、すべてのありのままをよしとしたりするところもあると感じる。
日本はというと、中国からの摂取も、インドからの摂取も、そして、西洋からの摂取もあるように感じる。それぞれに対して、良い意味でも悪い意味でも徹底的でなく、偏向的でないところに、日本的な感覚があるようにも思う。要素それ自体の性質に対してわりあいに寛容で、新たな調和を見出せればよいという柔軟さ(あるいは、甘さ)、ある意味での消極的な積極性は日本的だと感じる。
鈴木大拙の東洋「哲学」
鈴木大拙の小論に、『東洋「哲学」について』という作品がある。その中では直接的に、東洋には西洋が考えるような哲学は発達しなかったということが論じられている。
東洋には、哲学がないとか、美学がないとかいう人が、かなりに多い。それだけならどうでもよいが、それが何か東洋人の頭の、西洋人のほどに発達しなかったかのように考えて、何か卑下する感じを持ちたがる若い学者がいる。この下劣感はいらぬ話だ。
東洋に西洋のような哲学はなかったというのは事実だ。それにはまた大いに理由のあることで、その理由を究めてみなくてはならぬ。
東洋の人は、すべて何ごとを考えるにしても、生活そのものから、離れぬようにしている。生活そのものに、直接にあまり役立たぬ物事には、大した関心をもたぬのである。そうして、その生活というのは、いわゆる生活の物質的向上ではなくて、霊性的方面の向上である。(鈴木大拙 『東洋「哲学」について』より抜粋)
「霊性」は鈴木大拙の思想の中心の1つだと思うけれど、この霊性という言葉は、東洋の在り方を表現するために鈴木大拙が特別な意味を与えたと理解している。その中身は、どこまでも内省し、自己の存在に迫り没頭して、自ずから由る自由の境地のようなものだと理解している。それは絶対的で統一的な実在であり、なにものとも異なるがゆえにすべてを受け入れる。対立していながら、対立していない、そのままの精神の様だと思う。
東洋では霊性的美の欠けたものを、ほんとうの美とは見ないのである。霊性的生活から遊離した美は、ただそれだけのことで、それ以上には何の意味をも持たない。茶人は、床の間に、何もおかずに、まだ開きもせぬ一枝の花をそのまま、何の飾りもない花瓶に入れて、壁にかけておく。この蕾に、天地未だ分かれざるとき、いわゆる神が「光あれ」といった、そのままの光の影がうつって見える、といったら、今日の東洋の人々は、これを肯うか、どうか。
哲学の上にもまた同様のことがいわれうる。東洋では霊性的生活を離れた思索に重きをおかぬのである。いわゆる言葉の上での詮索では何の役にも立たぬ、という。それで東洋では、西洋の意味での哲学は発達しなかった。が、外に向かわぬ、もっぱら内にのみ向けられた霊性的面の詮索にいたりては、東洋の方が、はるかに進んでいる。(鈴木大拙 『東洋「哲学」について』より抜粋)
東洋では生そのものを美化する。
これをするのは、「無心」とか「無念」とかいう境地を体得しなくてはならぬ。そうしようとたくまぬ心を、まずは体得して、それから、思うままに行動する。
(鈴木大拙 『東洋「哲学」について』より抜粋)
東洋において、究極の思索は「思索しないこと」であって、そのままにあらゆるものと調和して在ることだと思う。そして、そのままに現実生活を生きること、日々の生活の中でそれを体現することを目指すというのが、鈴木大拙の主張から感じ取れる東洋的な姿のように思う。
「中心」を持たない哲学
大和絵の表現でときに指摘されることだと思うけれど、大和絵の構図の特徴として、描き手の視点が固定されていないということがあると思う。誰が、どこから見る、という概念の弱さが、その構図の特徴だと思う。
西洋の考え方だと、物事には起点や中心が必要で、何かを観察する自己、個人というものがあるが、東洋では必ずしもそれが明確でない。この点は日本に限らず、東洋哲学においても1つの特徴だと思う。中国とインド、日本、そしてもちろん、その他の地域には違いはあるけれど、東洋的と感じる点があるとすれば、明らかに認識するということを重視せず、個別性であったり全体性であったりに没頭し、それと同化すること、主体や主観を手放すことに対して強く抵抗しないという点があると感じる。
似ている話として、日本の庭にはコンセプトとしての中心はあっても、デザインとしての中心、モニュメントとしての中心の存在は弱いように思う。どこから見ても、何かしらの味わいがある。ここからこうやって見るものだ、という限定性や主体性が弱く、それは敢えてそういうものだと思う。
明らかに認識することに固執せず手放して、いかに統一的かつ複合的にあれるかという点に東洋の哲学があるのではないかと思う。哲学的に考えること以上に、哲学的であることを目指す。哲人に憧れる傾向が、東洋にはあるように思う。
東洋の哲学は中心を持たず、主体が曖昧だと思う。西洋的に言うと、明確な主観と客観を欠いている。また、厳密な論理的整合より、現実の全体的整合を重視して、非合理であっても調和的であることを好ましいと考える。西洋的に言うと、批判精神に欠いている、クリティカルさに欠けると思う。
それらの特徴は東洋の世界認識と通じていて、かつ、東洋では世界の在り方のままにあることを尊いと考える。そして、世界のままにあることは曖昧な主体によって初めて可能になる。世界は決して、個によってのみ成立することはないと、東洋では自然にそう考える。思想によって違いはあるが、仏教における「中道」、儒教における「中庸」、老荘における「無為」、聖徳太子の「以和為貴」はいずれも、そのエッセンスを有していると思う。
しかし、東洋のこのような特徴は、「東洋には哲学がない」と批判される要因でもあると思う。中村元の『慈悲』のはしがきに、以下のような一節がある。
われわれは現実の精神生活のうちに生きてはたらいている観念をただ漠然と意識しているにすぎないが、それを明瞭な概念的自覚のもとにもらたすということは、哲学の重要な課題である。
(中村 元 『慈悲』より抜粋)
それ自体が東洋の本質になることはないとしても、論理の弱さ、言語化の弱さ、概念を自覚の下にもたらすことの弱さは、東洋哲学が意識して克服し、取り組むべきことであるとも思う。