中庸之為徳也、其至矣乎、民鮮久矣、
中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。
(論語 擁也)
「中庸」は『論語』の中で孔子によって言及されており、儒学の伝統として重視されてきた徳目である。『中庸』という書物は儒学における四書の1つとして有名だが、これは元々は『礼記』の中の一篇で、宋の時代に朱子(朱熹)が特に重要な文章として、『大学』と共に『礼記』から抜粋をして有名になる。
我々が通常、目にすることが多い『大学』『中庸』は朱子が執筆した『大学章句』『中庸章句』で、『大学』については文章の順序の入れ替え、修正、大幅な(補足の域を超えたような)加筆がある。『中庸』については基本的には『礼記』の文章を引用しているが、朱子による補足・解説が適宜、挟まれており、全体としては朱子の新儒学によってパッケージングされている。『大学』は特に朱子によって高い位置に引き揚げられたが、『中庸』は孔子の孫の子思の作として古くから特別な篇として解説されることが多かったようで、朱子より少し前に登場し、朱子学・陽明学の源流でもある二程子(程明道・程伊川)も重視したという。
原文を読むべきという議論も当然あるが、朱子の著作によって儒学における「中庸」の位置づけや意味・構造が哲学的に深められ、理解や解釈の可能性が拡げられたことも間違いない。読みやすさという観点もあるので、今回は基本的には『中庸章句』の内容をベースに読んでいくこととしたい。(後述するが、そもそも原文とされる『礼記』の「中庸」も、1つの時代に書かれたものかどうかには疑念がある)
なお、『論語』などには「中道」という表現も登場し、登場回数としてはそちらの方が多い(「中庸」という言葉は『論語』において、1回しか出てこないという)。この「中道」についても、儒学では「中庸」と似たような意味と考えられることがあるが(「道半ば、中途半端」という意味で使われることもある)、「中道」は仏教哲学で「空」に通ずる重要な意味を与えられている言葉であり、そちらはまったく出自が異なるため、ここでは混乱を避ける意味においても、あくまで「中庸」として取り上げて、仏教における「中道」についてはまた別に機会があれば取り上げたいと思う。
中庸の意味
「中庸」という言葉の意味は、例えば、
その場、その時に、最も適切妥当なことである。だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われる。
(宇野哲人 『中庸』より抜粋)
と説明される。「庸」は「常(つね)」と訓じ、偏ることのない「中」を以って「常」の道をなす、ともいう。
このような概念、徳目は中国や日本に限って説かれたものではなく、例えば古代ギリシャにおいてはアリストテレスが「メソテース」という言葉で近しい概念を取り上げている。
恐れること、自信のあること、欲すること、怒ること、憐れむこと、一般に快楽を覚えたり、苦痛を感じたりすることには、多すぎることや少なすぎることが認められるのであって、どちらの場合もよくないのである。けれども、しかるべき時に、しかるべきものについて、しかるべき人々に対して、しかるべきことのために、しかるべき仕方でこうした情念を感じることは、中間の最善の状態によるのであり、これこそまさに徳に固有のことなのである。(中略)徳とは、中間を狙うものである以上、ある種の「中庸(メソテース)」なのである。
(アリストテレス 著、朴 一功 訳 『ニコマコス倫理学』より抜粋)
記載が厳密であるがゆえに、直観的に理解しづらい表現ではあるが、ここでいう「中間」とは「事柄における中間」ではなく、「我々との関係における中間」であり、状況によって異なるものである。そして、誤りや悪徳(超過や不足)の在り方は無数にあるが、徳の在り方はただ1つしかなく、中庸は徳に固有のものだということが説かれている。
「中」という文字は、旗竿の象形文字だといわれる。
【中】旗竿の形。卜文・金文には上下に吹き流しをつけた形のものがあり、中軍の将が持つ旗の形である。(中略)殷の軍は左軍・中軍・右軍の三軍編成で、その中に吹き流しをつけているのは、中軍の旗で、中軍の将がすなわち元帥であり、軍の統率者であることを示す。(中略)中軍の中よりして、すべて中央・中心・中正の意となり、また外に対して内、体に対して心を意味する。
(白川 静 『字統』より抜粋)
シンプルな文字であるがゆえに異説もあり、『説文解字』では「口と丨とに従う。上下通ずるなり。」として、「和」に通じるという解釈もある。
一方、「庸」という文字は原義は城墉(じょうよう、しろがき)のようだが、「用いる」の意にも使われ、巧庸(よいはたらき)という用法もある。
庚と用に従う。庚は午(杵)を両手で持つ形。用は木を柵のように組んだ形。そこに土を入れて杵で擣(つ)き固めて墉(かき)とするものであるから、庸は墉の初文である。
(白川 静 『字統』より抜粋)
のちに「凡庸」のように「平凡で、つねにあるもの」、「取り立てて特別でない、つまらないもの」の意に使われるようになり、中庸はそちらの用法だろう。城墉からあえて意味を引くとすれば、華やかに機能するものではなく、当たり前のようにあって、つまらないけれど巧く機能するものというニュアンスを感じ取れるようにも思う。また、平凡というのは『ニコマコス倫理学』にあるように、超過も不足もない、というニュアンスにも通ずるのかもしれない。
ちなみに「中」と「庸」は中国語では畳韻(じょういん)であり、「中」に中心的な意味があると金谷治氏の訳注では説明がされている。『中庸』から、いわゆる「中庸」について説明したフレーズを少し見ていくと、
庸徳之行、庸言之謹、
庸(つね)の徳を之れ行い、庸(つね)の言を之れ謹む。
(中庸 第三章)
人之為道而遠人、不可以為道、
人の道を為して人に遠きは、以って道と為すべからず。
(中庸 第三章)
君子素其位而行、不願、
其の位に素して行い、其の外を願わず。
(中庸 第四章)
行遠必自邇、
遠きに行くには必ず邇きよりす。
(中庸 第五章)
といったところがある。『論語』にある有名な「過ぎたるは猶及ばざるが如し」も、中庸の徳を表現したものとされる。及ばないところなく、過ぎるところもない、適切適当な在り方というのが中庸ということだろう。
中庸の徳は、他の徳に比べると「こうである」と明確に定義しづらく、時と場合に応じて適切な、ある意味で至った境地であるから、四書では『中庸』がもっとも難しいとして最後に置かれるし、『ニコマコス倫理学』では「関係における中間が正しい在り方であり、徳とは中間を狙うものである以上、ある種の中庸(メソーテス)である」とされる。
中庸は、いわゆる徳目の中では一段高い、徳それ自体の性質について説いたメタ的な徳目であると感じる。
中庸と誠
「中庸」という言葉の意味は前段で記したような内容だが、『中庸』という書物には天や誠に関する記載も多く、理想としての人の在り方(性)、つまりは中庸と天、そして誠が通ずる概念として主張されている趣がある。
冒頭でも少し触れたように、『中庸』は孔子の孫である子思の作であると司馬遷の『史記』において言及されており、伝統的には(例えば、朱子なども)その説をベースとする。しかし、例えば朱子について言えば、彼は四書(論語、孟子、大学、中庸)を権威づけるために、『大学』を『論語』と『孟子』の間の時代の曾子の作として置いている向きがあり、『大学』を四書として選出するにあたって、文章の順序を入れ替えただけでなく、独自の文章まで追加している。
『中庸』についても、孟子より前の時代の子思の作とするのが権威づけの上でも都合が良かったという面もあると思う。儒学の理想は孟子で途絶えたというのが1つの伝統的な考え方としてあり、孟子以前の著作とすることで、四書は理想を体現した文章であるという主張を成立させている。
話が少し脱線してしまったが、『中庸』という書物において、少なくとも「中庸と誠の関係」を記載した部分は内容から見て、子思の時代のものではないという指摘がある。内容もそうだし、文章の構成にも時代の文脈や特徴があり、『中庸』の一部はもう少し時代が下った後に、他の思想も踏まえて書かれている可能性があるという。
いつの時代に書かれたものかは一旦置いておいて、『中庸』には異なる2つの時代の影があり、その1つは素朴に「中庸」という徳の内容について説いたもの、もう1つは天や性、誠と中庸の構造的な関係を説いたもの、と言えるのではないかと思う。後者は、思想としてはより淘汰・洗練された時代のものだと予想される。
個人的な感覚としては、儒学と並び立つ老荘思想において説かれる「無為」や「自然」に対して、儒学的な自然、つまり「中庸」という徳が天の思想からの帰結として導出されると主張しているように感じている。
前置きが長くなってしまったが、本論に入りたい。
古代中国の世界観においては、天に道があり、その道は人において徳として発現している。老荘やそこから発展する道教では、混沌とした天と道の性質にそのまま人も従うのが良いという玄徳が説かれるが、儒学では「明徳を明らかにする(明明徳)」、つまり輝かしい立派な性質を明らかにし、発揮すべきであるということが説かれる。どちらも自然な性質を尊ぶ思想なのだけれど、自然で自由な老荘に対して、不自然で窮屈な孔孟という印象にどうしてもなりやすい。
実際、「道徳」というと古臭くて堅苦しい、教条的で押し付けがましいと感じる人もいるのではないかと思う。しかし、学問をして身を修めるとは、道を知り、道に至って、自由を得ることである。そこで、明徳を明らかにし、誠を尽くした先に到達する理想として「中庸」を位置付けたのではないかと思う。四書の最初に読むべきとされる『大学』において明徳から始まった修身は、四書の最後に置かれる『中庸』において、儒学が考える理想的自然、自然的理想の態度として中庸の徳に至る。それはちょうど、老荘が「無為」を理想とするのに対応しているように思う。
『中庸』の以下の一節では、中と和が天下万物の生成の原理として説かれている。生成の原理とはつまり天であり、道であり、自然であろう。性質としての中庸が核となり、外に発して和をなす。それはまさに天の姿である。
喜怒哀楽之未発、謂之中、発而皆中節、謂之和、中也者、天下之大本也、和也者、天下之達道也、致中和、天地位焉、万物育焉、
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発してみな節に中(あた)る、これを和と謂う。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。
(中庸 第一章)
「喜怒哀楽の未だ発せざるを中と為し、発してみな節に中(あた)るを和と為し」て、「中和」を尊ぶというのは、『ニコマコス倫理学』における「しかるべき時に、しかるべきものについて、しかるべき人々に対して、しかるべきことのために、しかるべき仕方でこうした情念を感じる」ことが中間の最善の状態、すなわち「メソーテス」であるという構造と近しい。
「無為」と「中庸」のいずれを好むかというのは人それぞれだし、それに至る道筋や世界観においては孔孟と老荘でまったく異なる点も多いが、自然な在り方に至ろうとする点においては、突き詰めると近いものがあると感じる。
孔孟も老荘も天を万物の根源とするが、天に人格や意志はあまり認めていない。天それ自体が教えを説いたり導いたりはせず、天それ自体を宗教的な信仰の対象とはしない。天はあくまで、自然の法であり、その法を探究し、その在り方に沿うことが自然で良いとされる。このあたりは、天志兼愛を説く墨子とは異なる点で、そういう観点で墨子は創造主である唯一神(ヤハウェ)をいただくキリスト教に近い。
『中庸』において、天と性については例えば以下のように説かれる。
天命之謂性、率性之謂道、脩道之謂教、
天の命ずるをこれ性と謂う。性に率うをこれ道と謂う。道を脩むるをこれ教という。
(中庸 第一章)
誠者、天之道也、誠之者、人之道也、誠者、不勉而中、不思而得、従容中道、
誠なる者は、天の道なり。これを誠にする者は、人の道なり。誠なる者は、勉めずして中(あ)たり、思わずして得、従容として道に中(あ)たる。
(中庸 第十一章)
天は真っ当である、ということ以上に、天になにかしらの意味があるわけではないという点が非常に重要だと思う。その真っ当さを儒学では「中庸」、老荘では「無為」と説くが、天が有する真っ当さについて、墨子やキリスト教ほどには孔孟も老荘も饒舌ではないのではないかと思う。
私たちの在り方の理想の1つとして、探求すべき1つの形として、中庸はある。