文脈への関心

ずいぶん前なので、今ではすっかり変わってしまっているかもしれないけれど、働き始めたころに「ストレングス・ファインダー」(現在のクリフトンストレングス)というテストを勧められて、詳しい順番は忘れてしまったのだけれど、結果の中に「原点思考(Context)」、「運命思考(Connectedness)」というものが含まれていた。それらの言葉に馴染みはなかったものの、自身の性質として納得感があったし、今でも僕の中にはそのように物事を考えようとする傾向があると感じる。

原点思考(Context)

「原点思考」の資質が高い人は、過去について考えるのが好きです。歴史をたどることにより、現在を理解します。

運命思考(Connectedness)

「運命思考」の資質が高い人は、あらゆる人や物事は互いに結び付いていると考えています。この世に偶然というものはほとんど存在せず、ほぼあらゆる出来事には何らかの意味が存在すると確信しています。

(「クリフトンストレングス 34の資質」より)

僕はどうしても、あらゆる物事の文脈(Context)が気になるし、あらゆるものは繋がっているのだから(Connetedness)、その起源と関係性を広く深く知りたいと思う。それは当然、僕のもっとも身近で大切な問題である「自我」というものに対してもそうで、すごく単純化すると、僕の関心は「僕はどのように生じて、どこから来て、どこに行くのか」ということに尽きるのかもしれない。

 

この問い自体は定義が難しくて、「僕」「生じる」「どこ」「来る」「行く」のそれぞれが広がりを持った概念なので、例えば遺伝的にどういう起源を持つのか、言語的にどういう起源を持つのか、あるいはアストロバイオロジー(宇宙生物学)的にどういう起源を持つのか、というよりは、自分によっては決して定義することができない自分という現象の文脈に興味があるということを、最近は少しずつ思うになった。

それらは何かしらの繋がりによって生じているという感覚を持っているので、あることを知ると、その先にある繋がりが見えてくる。それは過去に対して手繰り寄せることもできるし、未来に向かって差し伸べられたものでもあるが、僕の場合は過去、現在、未来の繋がりそれ自体に興味があって、それもまた、つまりは文脈に興味があるということなのかなと思う。

 

もう少し具体的な話に移ると、日本で生まれ育った僕が文化的にコンテクストとコネクトに関心を持つと、まず目について出発点となるのは「日本」というものだと思う。ただ、特に戦後の(あるいは江戸末期の開国以来かもしれないけれど)日本においては「日本」はやや否定的に捉えられている面もあって、例えば日本的な調和や儒学的な考行、仏教的な利他は生活の中で考え方としては息づいていても、年長者の時代の古臭い価値観であるという感もあったように思う。

一方で、「道徳」は少し論点がぼやけていたし、漢文や古文の授業は暗記する単元のような向きがあったように思う。

 

それらの中でとりあえず目にとまったのが「漢籍」で、もちろん中国にもいろいろな文脈があるけれど、日本の文化に与えた影響は大きく、十代の僕にとっては漢籍というのがもっとも触れやすい思考の源流らしきものであった。江戸時代から昭和初期までのように朱子学やそれにおける四書五経が教育の中心ではないものの、日本の教育のかなりの部分を占めてきたであろう漢籍の存在を感じることはあって、こちらもなんとなく教訓めいて古臭いという風潮のあった儒学より、老子や荘子、孫子、韓非子なんかへの憧れが強かったように思う。

同時に、西洋哲学には見慣れない用語や形式があって、目新しいもののように映った。特に高校生の頃はなんとなくギリシャ哲学に惹かれたけれど、なんとなく水が合わず、文字としては読み取れても実践しづらいように感じて、二十歳になる頃までには距離を置くようになっていったように思う。あらためて読めるようになったのはずいぶん経ってからである。

 

では、東洋思想がわかりやすかったかというとそんなことはなくて、こちらはこちらで、とても掴みづらかった。断片的にはわかるのだけれど、そもそも歴史的な背景に関する知識がなく、何故、何のためにそのような考えが生まれたのかを知らずに触れるので、どのように読んでよいのかがわからなかった。西洋ほどは遠くないけれど、中国には中国の風土があるし、日本で読む漢籍やその解説の場合は当然に日本の風土の影響を受けていたり、さまざまな時代の中で手垢がつき過ぎていたりするのもあったのかもしれない。

思想というのは時代的・風土的な背景に加えて政体や権力の影響を受けていて、神道における国家神道にしても、儒学における朱子学にしても、かなり意図的に操作されているにも関わらず、その操作の部分はぼんやりとしか教えてくれないし、哲学や思想はさも純粋な思索であるかのように記述される傾向があるようにも思う。それは東洋であろうが、西洋であろうが、変わらない。

 

僕は、思索は常にそう思索されるべくして生じていると思っていて、僕にとっては文脈と切り離しては理解できないものである。文脈と繋がりを理解しないことには、それをどのように自分の中で取り扱ってよいのかがわからなくなってしまう。

最近は、インド的なものにも少し関心を持つようになった。中国の先にはやはりインドがあって、自分の中におけるインド的な部分、中国的な部分、日本的な部分を少しでも探って、僕自身の在り方について知りたいと思うようになった。それはいったん表面的には、原始仏教、古代中国、そして日本の風土への関心となっていて、いつかそれらが繋がると良いなと思っている。

 

陳腐な表現だけれど、知れば知るほど、自分が知らないということがわかる。分かれば分かるほど、最初は分かっていると思っていたことも分かっていなかったことが分かる。そうであっても、その時の認識や理解を書き留めとおきたいという想いがあるので、こうして文章を書くのかなと思う。

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