易と道

『易(周易)』という書物は、その体系は比較的シンプルなわりに難解で、それが一体、何のためのどのような書物であるのかという点からして、はっきりとした合意を得づらいのではないかと思う。

 

儒学における五経の1つとも言えるし、筮占の書として、また、占いの方法として利用している人もいると思う。太極の概念は道教における哲学や宇宙観の基盤でもある。万物の生成・流転の理であり、処世の智慧として用いられることもある。

起源は古代中国で実際に行われていた占いにあり、初期から経典であったわけではなく、儒学の経典としての受容は前漢の頃という研究も見られる。『論語』が孔子の言行録であるのに対して、『周易』は先に存在していた書物であるから、当然そのまま受け入れられたわけではなく、そこには儒学として解釈があるだろう。

 

古代中国の占いの書としては他に『連山』『帰蔵』があり、いわゆる私たちが『易』と呼んでいる『周易』と合わせて三易と呼ばれる。そのどれもが八卦をベースとした六十四卦から成っていたというが、『連山』『帰蔵』についてはその内容に関する確かなことはわからない。

『周易』の卦辞・爻辞は周の武王の弟である周公旦の作という伝説があるから、八卦を用いた占い自体はもっと古い時代から存在しており、時代的にもっとも最後に整理されて残ったのが『周易』ということかもしれない。

道の表現方法としての『易』

古代中国の思想、そして日本においても取り入れられた重要な概念の1つに「道」がある。「道」はあらゆるものの法則、規範、在り方であり、天を絶えず巡るエネルギーの源である太陽はお天道様と呼ばれる。岡倉天心は『茶の本』において、道とは「宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長(the spirit of Cosmic Change, — the eternal growth which returns upon itself to produce new forms)」とも表現している。

この「道」について語ろうとすると、語り尽くせないところがある。道を宇宙変遷の精神だとすれば、我々は確かにそれを直観している。それはまったく言葉にできないわけではないけれど、言葉にすると嘘になってしまうところがあり、語り尽くすことはできない。

 

このような現実に対して、『老子』は、

道可道、非常道、

道の道とすべきは、常の道にあらず。

(老子)

と説く。道を「道」と言った瞬間に、それは道から外れてしまう。道は確かにあるが、確固たるものとして捉えようとすると誤るというのが道家の立場である。

 

『易』を経典化した儒家の発想も、実はそれに近いのではないかと思う。儒家は基本的には人外のものを想定しない。鬼神や呪術の類は認めず、人の修養、徳や礼から社会を描こうとする。

しかし、宇宙には道があるし、それは儒学が大切にする徳という形で人に顕現している。根本にあると直観される「道」を説くことを避けては通れないけれど、安易に言葉にできるものではないし、安易に言葉にすると道家に比べて深みが無くなってしまう面もある。

 

そこで、「道」を説くプロトコルとして、『易』を導入したのではないだろうか。『易』という書物には確かに説明が加えられているが、基本的には記号の集まりである。

この記号は互いに関係し合い、連なりながら、宇宙変遷の精神、生命の働き、物事の盛衰を導く。記号というのは、言葉でありながら言葉でない。尽きない道の原理を表現する方法が『易』である。それはどこか、芸事における型にも似たところがあるように思う。

 

『史記』の「孔子世家」では、孔子は晩年、『易』を繰り返し読んだという。もちろん孔子ほどの人物であれば、『易』に限らず、さまざまな書物に繰り返し取り組み、理解をアップデートし続けただろうから、司馬遷はなにかしらの意図を持って、特に『易』に言及したのだろう。

触れるたびに意味合いが更新される性質が特に強いことが『易』の特徴ということなのかもしれない。

易の三義

『易』を道の表現方法だと捉えると、その道の基本的な性質とはどのようなものなのか。本質的には、基本的な性質ですら有機的に成長するのかもしれないけれど、一般的には一応、「易の三義(易には3つの意味がある)」ということが言われる。

易一名而含三義、易簡一也、 變易二也、 不易三也、

易は一名にして三義を含む。易簡は一なり。変易は二なり。不易は三なり。

(周易正義)

『周易正義』は貞観の治で有名な唐の太宗が孔穎達らに編纂を命じて整備された五経の注釈書の1つで、科挙の標準的な教科書となったことで広く一般的な解釈として流布する。

『周易正義』の解釈は漢代に成立したと考えられている緯書(『易緯乾鑿度』)から引かれたものだというが、緯書は孔子に仮託された予言書として反乱や革命の大義とされるという面があり、南北朝以降は権力者から危ぶまれ、隋の煬帝も禁書としたから、唐の時代にはすでに随分と散逸していたと考えられている。

 

中村元は『シナ人の思惟方法』において、彼らの特徴として「尚古保守性」を挙げている。『周易正義』やそれに引かれた『易緯乾鑿度』もその例に漏れず、中国文化を強く受容した日本においても、当然に正しいものとして捉えられている。

その姿勢の是非は置いておいて、この解釈の根拠は「繋辞伝」にも見ることでできて、例えば「易簡」については、

乾以易知、坤以簡能、易則易知、簡則易従、易簡而天下之理得矣、

乾は易を以て知り、坤は簡を以って能くす。易かれば則ち知り易く、簡なれば則ち従い易し。易簡にして天下の理を得る。

(繋辞上)

つまり、「平易だから知りやすく(乾)、シンプルだから従いやすい(坤)」とされる。不自然で難解だったり、捻くれていたりはしないということが「易簡」の意である。

 

「変易」については、

剛柔相推而生変化、

剛柔相い推して変化を生ず。

生生之謂易、

生生をこれ易と謂う。

(繋辞上)

易窮則変、変則通、通則久、是以自天祐之、

易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれば久し。是を以て天より之を祐(たす)く。

(繋辞下)

「生まれ生じ続け、変化することによって窮まるところがない」といったところであろうか。

 

最後に「不易」については、

天尊地卑、乾坤定矣、卑高以陳、貴賤位矣、動静有常、剛柔断矣、

天は尊く地は卑しく、乾坤定まる。卑高以て陳なりて、貴賎位し、動静に常有りて、剛柔断(さだ)まる。

(繋辞上)

が根拠として引かれ、「天地がひっくり返らないように、常に定まった原理がある」と捉えられる。

道と生きる

孔子は後世に大きな影響を及ぼしたけれど、現実の政治においてはそれほど成功せず、五十歳を過ぎてからは長く亡命生活を送ったとされる。『論語』には、孔子の言葉として以下のような一節がある。

天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也、

天下に道あれば則ち見(あらわ)れ、道なければ則ち隠る。邦に道あるに貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道なきに富み且つ貴きは恥なり。

(論語  泰伯第八)

どう考えても変わらない道理はあるのに、それが絶対の主張になるわけではなく、なんとなれば理不尽によって天下が定まってしまうように思えることもある。

孔子が『易』を晩年に読み込んだというのは、失脚を経て、道徳を貫こうとすることの意義を問い直す必要を感じたからなのかもしれない。

 

子曰、加我数年、五十以学易、可以無大過矣、

子曰く、我に数年を加して、以て易を学ぶことを卒へしめば、以て大過なかるべし。

(論語  述而第七)

この一節は解釈の揺れがあり、「五十」をそのまま五十歳と解釈して、「(四十代の頃に)あと数年して、五十歳になってから易をきちんと学べば、大きな失敗はないだろう」とする訳も見られる。

しかし、実際には孔子は五十歳を過ぎてから政治的には失脚をしているから、「五十」を「卒」の字の誤りであるとして、「(七十歳に近づいているが)私にあと数年の命が与えられて、易を学び卒えることができれば、大きな過ちをしなくなるだろう」という解釈の方が自然であるように個人的には思う。晩年は実践者というより、教育者としての側面が強くなっていくこととも符合していると感じる。

 

もちろん確かなことはわからないけれど、晩年に『易』を学んだという孔子に、人の世のもどかしさを受け入れて対峙しようとする姿勢を感じる。老子とは向き合い方が異なるけれど、どこかで正面から、この世界の成り立ちというものに没頭し徹底することが人には求められるのかもしれない。

易の三義については、もちろん「簡易」や「変易」も易の性質であると思うけれど、易をあえて「不易」とするところに、迷信や占いに安易にとどまらない、矛盾のある生に対峙する姿勢が込められているように感じる。

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