荀子という人物もしくは思想は、日本で普通に教育を受ける範囲においては、(少なくとも私が小中高を過ごした時代においては)儒家の1つであって、孟子の「性善説」に対して「性悪説」を主張したというくらいの理解にとどまってしまうのではないかと思う。もちろん、荀子の「礼」の思想や諸子百家における位置付けについて、もっと深く理解していた方も多かったのかもしれないけれど、少なくとも私はそうではなかった。
「善」「悪」という概念は人間をどこか惹きつけるし、とりわけ若いころには惹かれるものがあるので、記憶には残っていたものの、あらためて学んでみたいと思ったきっかけは宮城谷昌光の『奇貨おくべし』という小説だった。『奇貨おくべし』は中国の戦国時代を舞台に、呂不韋を主人公として秦による中華統一の前夜を描いた物語で、荀子は呂不韋が師事して学んだ1人として登場する。
その師弟関係が史実かどうかは別にして、一般に孟子で途絶えたとされる儒家の理想を、戦国という現実の中で応用し、中央集権の統一国家を実現する法家の思想にも影響を与えた荀子の学問に興味を抱いた。過去の文章を少し編集しながら、あらためて荀子について私が感じていることをまとめてみたい。
荀子の生涯
荀子名は況、また孫況、孫卿と言う。戦国末、趙の人。伝記は史記孟子荀卿列伝などにある。後年、斉に赴き、稷下にて老師として尊敬され、次に楚の春申君に重用されて蘭陵令となり、遂に此処で死んだが、其の間各地を遊説したという。
(東京大学中国哲学研究室編 『中国の思想家』より抜粋)
荀子は古い郇(じゅん)という国の公孫(公族の子孫)の出身であったため、「郇」(荀)、または公孫であることから「孫」と名乗ったと言われる。名は「況」だが、尊敬の念を込めて「子」または「卿」と呼ばれる。ただし、「荀」と「孫」、「況」と「卿」の音が似ていたため、どちらも使われたという説もある。いずれにせよ、荀子が生きた戦国時代においては孫子または孫卿と呼ばれることが多かったようである。
趙、斉、楚はいずれも戦国時代に覇権を競って争った戦国七雄と呼ばれる国で、斉は周の建国の功臣である太公望が封ぜられた国であり、文化国家として有名である。
斉はある時期、優秀な学者を多く抱えて養っており、その学者が集まった場所は斉の国都であった臨淄の城門の1つである稷門(しょくもん)の近くにあったことから、稷下と呼ばれる。荀子はこの稷下で三度、祭酒(長)になったが、讒言によって稷下を去ったと言われる。
その後は戦国四君の一人である、楚の春申君に仕えて蘭陵という地の令(長官)となるが、春申君が暗殺された後は隠遁生活を送ったとされる。
荀子は長生きで、秦の始皇帝が天下を統一する少し前まで生きており、九十余歳で没したという。
「性悪(せいあく)」の意味
孟子の「性善説」に対して、荀子は「性悪説」を主張したとされ、この「性悪説」が荀子の有名な思想の1つではないかと思う。
人之性悪、其善者偽也、
人の性は悪、其の善なるものは偽なり。
(荀子 性悪篇第二十三)
「性善」に対して「性悪」は語感が悪いこともあり、「性悪」の意味が十分に理解されないまま、言葉だけが広まっている印象もあるが、「性悪」は極めて現実主義である荀子の思想の一端であり、
人の性は放っておくと自己中心の利欲を欲しいままにして、他の利害を顧みなくなり、そこに争奪が起こるゆえに、努力によって人格を磨かなければならない。
というのが、その主張である。「人格を磨かなければならない」と表現すると教条的に響くが、「人は努力によって、その人格を磨くことができる」はずだという、人間への信頼がその根底にはあると思う。個人はもちろん、国家レベルで騙し合い、奪い合いが当たり前に行われていたであろう戦国の世において、このような信頼を揺らがずに主張したというのは、荀子の信念のように感じる。決して、人間の本性は悪だから教育しなければならない、制約しなければならないという主張が本質ではないと私は理解している。
同時に、荀子自身も斉において讒言によって稷下を追われ、楚で仕えた春申君は戦国四君と称されたほどの英傑であったにも関わらず、晩年に李園の愚策に乗って暗殺されており、人に対する冷徹な視点も持っていただろう。乱世において、人の「性悪」は悪事や裏切り、妄執に向かうことも多い。
「性悪」は人の努力に対する信頼であると同時に、人の愚かさに対する確信でもあると思う。この「性悪」という考え方は、伝統を根拠として礼治を主張した儒家である荀子と、現実に対処することに重きを置いて法治を主張した法家の中間的なコンセプトでもあるとも感じるが、あくまで荀子が着目したのは「人の努力に対する信頼」にあるのではないかと、個人的には思っている。
荀子の世界観
そういった荀子の基底を想像しながら、『荀子』という書物を眺めてみると、人の可能性や努力に対する、信念にも近い期待や信頼が見えてくるように思う。
学不可以已、青取之於藍、而青於藍、氷水為之、而寒於水、
学は以て已むべからず。青は之を藍より取りて、藍より青く、氷は水之を為して、水より寒(つめた)し。
麒驥一躍、不能十歩、駑馬十駕、功在不舎、
麒驥も一躍にては、十歩なること能わざれども、駑馬も十駕する。功は舎めざるに在り。
(勧学篇第一)
見善、脩然必以自存也、見不善、愀然必以自省也、
善を見れば、脩然として必ず以て自ら存(かえり)み、不善を見れば、愀然として必ず以て自ら省みる。
路雖近、不行不至、路雖遠、行之必至、事雖易、不做不成。事雖難、做則必成、
路は邇しと雖も、行かざれば至らず。路は遠しと雖も、行けば之必ず至る。事は易きと雖も、做(な)さざれば成らず。事は難しと雖も、做(な)せば則ち必ず成る。
(修身篇第二)
迷者不問路、溺者不問遂、亡人好獨、
迷う者は路を問はず。溺れる者は遂を問わず。亡ぶ人は獨(ひと)りを好む。
(大略篇第二十七)
人は弱く、愚かで、間違えることが多い。しかし、弛まず、善いと感じるものに少しでも親しみ、周囲に助けてもらいながら、一歩ずつ進んでいくことで、深く美しい「青」になることができる。人は1つ1つの努力の積み重ねによって、自らを高めていくことができるというのが、荀子の思想の根源にあると思う。
『論語』に「子は怪力乱心を語らず」とあるように、儒家は鬼神を退けて、血縁的秩序や共同体を実践の根幹に置くが、「天」に理想や権威を求める傾向はある。しかし、荀子は「天」という存在を明確に人と切り分けて考える。
君子敬其在己者、而不慕其在天者、是以日進也、
君子は其の己にあるものを敬し、天に在るものを慕わず。是を持って日に進むなり。
(天論篇第十七)
荀子も「天」を否定しているわけではなく、天論篇においては「天職」という概念も登場する。しかし、これはいわゆる「天によって定められた職業」という意味の天職ではなく、天には天の仕事があり、地には地の仕事があり、人には人の仕事がある、という意味で使われる。天行は常であり、ひどい君主だから天が滅びるということもなければ、人が寒くて困るから冬がなくなるということもない。
仕事に励んで節約すれば、天であっても貧窮させることはできない一方、人の道に背いてでたらめに振る舞えば、天であっても幸せにすることはできない。天人は天地とともに生きているが、人がやるべきことは、人が為すべき仕事に注力することである。
人の世に生きていると、人の世が生み出した制約、つまり社会によってままならないことはもちろんあると思う。しかし、それはあくまで人の話であって、天や地の話ではない。戦国の世においてなお、このような思想を貫こうとした点に荀子の強さがあると思う。
荀子の弟子
荀子に学んだことがある人物として最も有名なのは、秦の始皇帝を輔けた李斯と、その李斯の讒言によって不遇の死を遂げた韓非子であろう。もちろん、史実かどうかを疑う余地はあるけれど、司馬遷の『史記』にそのような記載がある。
韓非子は法家の代表人物で、その著作とされる『韓非子』は春秋戦国時代の分析に基づいた政治学の古典として、マキャベリがルネサンス期に著した『君主論』や『ローマ史論(ディスコルシ、政略論とも)』と並べられることもある。秦王がその書を読んで感動し、韓非子を国に招いた際に、その優秀さを知っていた同門の李斯は韓非子が自分より重く用いられることを避けるため、讒言によって韓非子を遠ざけたと言われる。
春秋戦国時代の大きなテーマの1つは、いかに国を強くし、維持・拡大するかという点にある。そして、国とは人の集まりである。荀子がそのソリューションの核に「礼」を置いたのに対し、それを「法」によって達成しようとしたのが韓非子と捉えることもできるのではないかと思う。これについては別の文章でまとめたものがあるので、よければご覧いただけると嬉しい。
宮城谷昌光の小説『奇貨居くべし』においては、始皇帝の父ともされる呂不韋も荀子に学んだことがあるとされている。小説というものはもちろん創作であり、そこに価値があるものだけれど、決して折れることのない、透徹した人間観を持つ荀子の思想に勇気づけられる、良い作品だと思う。
思想の紹介
私は『荀子』を読破したわけではないし、目にした部分についても詳細な検討をしているわけではないので、雑多に自分が良いなと感じたところの抜粋にはなってしまうけれど、個人的に興味を惹かれた文章を少し紹介してみたい。上で引用した文書と被るところも多いけれど、ご了承いただけると幸いです。
勧学篇第一
『荀子』の冒頭に配置されている篇であり、人間の可能性を信じて修身を説く荀子の思想の出発点であると同時に、到達点でもあると感じる「勧学」について説いた篇。文字通り、「学を勧める」という内容になっている。
「性悪説」があまりに有名なため、『荀子』は「性悪篇」から始まると誤解されていることもあるが、性悪篇は全三十二篇のうちの二十三番目に配置されており、『荀子』はこの「勧学」から始まる。学問・修養の必要・目的・方法・効果などが諄々と述べられており、荀子の想いを感じる文章が並んでいると思う。
藍よりも青し
学不可以已、青取之於藍、而青於藍、氷水為之、而寒於水、
学は以て已むべからず。青は之を藍より取りて、藍より青く、氷は水之を為して、水より寒(つめた)し。
上でも紹介したが、これが勧学篇の冒頭、つまり『荀子』という書物のもっとも最初に置かれている文章となる。「出藍の誉れ」の出典としても有名で、学問・修養を道半ばで止めるべきではなく、無限に超えることを目指すべきと説く。
功は舎めざるにあり
麒驥一躍、不能十歩、駑馬十駕、功在不舎、
麒驥も一躍にては、十歩なること能わざれども、駑馬も十駕する。功は舎めざるに在り。
こちらも上でも紹介したが、「十駕の術」の出典としても有名な一節である。「藍より青し」と同様、不断の努力のみが成功につながると教える、鼓舞される一節だと思う。
学は没するに至りて止む
學至乎没而後止也、
学は没するに至りて後止む。
学問の段階や項目についてはもちろん段階があるけれど、学ぶということは死ぬまで怠ることはあってはならない。久しく積み重ねて聖人に至るのであるから、死に至るまで学ぶことは進み続ける。
君子の学ぶや、動静に形る
君子之學也、入乎耳、箸乎心、布乎四體、形乎動静、
君子の学ぶや、耳より入りて、心に箸(つ)き、四体に布きて、動静に形(あら)はる。
立派な人物の学問は、ただ知識を得るものではなく、精神・身体にまで染み込ませていくようなものである。一方で、耳から入ってきた事柄を、すぐに知ったように言ってしまうようなのはつまらない人であるとする。個人的にはとても耳が痛いけれど、学問・修養に励む上での大切な心がけを教えてくれると感じる一節だと思う。
近づくより便なるはなし
學莫便乎近其人、
学は其の人に近づくより便なるは莫し。
書物の学問はもちろん大切だが、やはり学問は実践、実際の人に即していなければならない。そのため、学問をやるというときにはその人に近づくべきであるという教え。近づくというのは、単純に物理的距離の話にとどまらず、心から親交して寄り添うということを指していると思う。
百発も一を失すれば
百發失一、不足謂善射、
百発も一を失すれば、善射と謂うに足らず。
弓を引いて、百発のうちで一発だけ失敗に過ぎないとしても、それでは善く弓を射たとは言えない。学問は学んで、その学問と自己を一つにしていくことであり、全うし、やり尽くして初めて学んだということができる。厳しくも本質的な言葉だと感じます。
修身篇第二
勧学篇に続く篇で、身を修めることの必要性・心構え・方法・効用などが説かれる。「勧学」に「修身」が続くのはとても自然な流れで、編者の意図も感じる。
善を見れば、必ず存(かえり)みる
見善、脩然必有以自存也、見不善愀然必以自省也、
善を見れば、脩然として必ず以て自ら存(かえり)み、不善を見れば、愀然として必ず以て自ら省みる。
修身編の冒頭に置かれる、修養の実践方法を端的に説いた一説。善い行い見れば、身を正し慎んで自分を振り返り、善くない行いを見れば、憂い慎んで自分を省みる。単純ながら、身につけて実践すべき態度だと感じる。
行かざれば至らず
道雖邇、不行不至、事雖小、不為不成、
道は邇(ちか)しと雖(いえど)も、行かざれば至らず。事は小なりと雖も、為さざれば成らず。
近い / 遠い、易い / 難いに関わらず、行かなければ到達しないし、やらなければ成功はしない。世の中のほとんどの事柄は、それ以上でもそれ以下でもないのだと思う。
天論篇第第十七
天は確かに存在し、常に運行し、理を持っているが、天行は人事とは一切関係ない。荀子独特の天地観が説かれる編。人は人事を尽くすべきであり、努力を怠らず、徳において欠けてはならない。それが人の根本であることを説く。
本を彊めて用を節す
天行有常、不為堯存、不為桀亡、應之以理、則吉、應之以亂、則凶、彊本而節用、則天不能貧、養備而動時、則天不能病、脩道而不貳、則天不能禍、
天行常有り。尭の為に存せず、桀の為に亡びず。之に応ずるに理を以てすれば即ち吉、之に応ずるに乱を以てすれば即ち凶。本を彊(つと)めて用を節すれば、即ち天も貧すること能わず。養備わりて動時なれば、即ち天も病ましむること能わず。道を修めて貳(たが)はざれば、即ち天も禍(わざわい)すること能わず。
天論編の冒頭で説かれ、まさに荀子の天論の根幹であると思う。本業(ここでは農耕を指す)に努め、きちんと節約すれば、いかに天と言えども貧窮させることはできない。同様に、きちんと環境を整備して正しい生活習慣を持てば、病になることはなく、修養して道を踏み外すことがなければ、災禍もその人を滅ぼすことはできない。
とても荀子らしい、信念を感じる一節だと思う。
天を怨むべからず
不可以怨天、其道然也、
以て天を怨むべからず。其の道然らしむるなり。
上記のような法則をまとめた表現。すべては人事の結果であり、それが道理である。物事はなるべくしてなる。それを知っていれば、天を怨むということなどにはならない。
天にあるものを慕わず
君子敬其在己者、而不慕其在天者、是以日進也、
君子は其の己にあるものを敬し、天に在るものを慕わず。是を持って日に進むなり。
こちらは上でも引用したため、繰り返しにはなってしまうが、そこで君子は己の中にあるもの、己という小宇宙を敬い、無限の可能性を追求する。神や幸運といった、己の外にある「天」を恃んだりしない。こちらも荀子の天地観がよく表現された一節。
ここではどちらかというと「個人」の在り方に着目した文章を主にご紹介した。それは私自身の立場や関心がそちらにあって、そういった内容に共感するところから『荀子』を読み始めたこととも関係していると思う。
ご紹介したものの他にも、中庸の徳を象徴した「宥座の器(宥座篇第二十八)」、世の中を治めるのは人であって法ではないと説く「治人あって治法なし」、また、統治システムとしての礼について考察した礼論篇第十九など、さまざまな内容があるが、また機会があれば触れることとして、今回はここまでとしたい。