墨子(ぼくし)

墨子というのは中国の戦国時代に活躍したと考えられている墨翟への尊称であると同時に、墨翟から続く墨家の思想が記された書物の名称である。

墨家は儒家の仁(思いやり)は、身近な人に偏った差別的な愛であるとして、万人に対して平等な愛(兼愛)を主張し、守城の精神と技術(非攻)を以って、戦国の世に平和主義を唱えたという。実用と実際に重きを置く思考は、中国における論理学や科学技術のはしりともされるが、その思想は秦による中華統一と思想弾圧の後に顧みられることが少なく、あまり深く研究されないままに長く放置されていたという。

 

その論理学的な側面をきっかけに人に薦めていただいて以来、いつか学びたいと思いつつ、なかなか取り組む時間を取れていないけれど、まずは概観だけでも自分なりにまとめておきたい。

墨翟、および『墨子』について

その思想に入る前に、まずは墨翟という人物、古典としての『墨子』、そして墨家について、整理しておきたい。

墨子は、儒家とならんで古代思想界の二大勢力と称せられた墨家の開祖である。しかも彼は生涯を通じて一篇の著作も残さなかった思想家である。

この二つのことは、彼の伝記を叙述するとき、決して忘れてはならない要点である。墨子は彼みずからについて一度も書き残さなかったのに反し、後人は彼について余りにも多くを書きすぎている。特に直接の後人たち墨家は学派として繁栄をつづけた二世紀間を通じて絶えず多様な墨子像を形象した。もちろん、その中には墨子の真の言行を伝えるものもごくまれに混じっているが、多くは後学が世代ごとに必要によって構成したものである。したがってそれらの鑑別のためには、墨家が活動した全過程と共に彼らの形象した墨子像の変遷をもあとづけておかなくてはならない。

(東京大学中国哲学研究室編 『中国の思想家』より抜粋)

墨翟自身が著作を遺していないというのは、資料的な根拠があるのだろう。いずれにしても、墨翟という人物が実際にどのような思想を持って、どのように行動したのかを直接掴むことは難しいようである。

 

墨翟が活動した期間は、墨翟が関わった君主から推測され、在位期間がわかっている楚の恵王(紀元前488-432年)、斉の太公田和(紀元前404-384年、田斉の初代)に面会したというエピソードから、おおよそ紀元前5世紀から4世紀にかけて活動したと考えられている。

孔墨と並び称される儒家の始祖である孔子(仲尼)は紀元前479年に没したとされるので、墨翟はちょうど孔子と入れ替わりに近い形で活動したと想像される。

 

墨翟の死後、墨家集団はその理想と現実の中で紆余曲折したようで、『中国の思想家』では、その変遷をおおまかに3つのフェーズに分けて説明している。

墨子の残した集団は、巨子という名の指導者に統率されて、以後二世紀間に近い歴史を生きぬいた。その活動はほぼ三つの段階に分けられる。

初期墨家は開祖の言行をひとすじに伸ばし、拒利にもとづく兼愛・非攻および尚賢の主張を祖述しつつ、弱小国の城邑防備に挺身したらしいが、前三八一年、巨子孟勝とその集団一八〇人は壮烈な悲劇に直面した。彼らは楚の貴族陽城君の客となり、その城邑および領地の防衛を委託されたが、楚王の君権強化施策の渦中にまきこまれ、負託の重責をにないきれず、ついに集団ことごとくが自殺をとげた。いわば、伝統的に存続してきた邑制国家も、その防衛をめざした墨子以来の意欲も戦国の疾風怒涛には抗しきれなかったのである。

孟勝の遺託により宋の田襄子が次代の巨子に指名されたが、時代の要請と悲劇の反省とはこれ以後の墨家の進路を大きく転回させたらしい。中期墨家は集団生活における分業・利益交換・団結の必要を確認し初期の主張を拡大して初めて交利にもとづく兼愛・非攻の口号を掲げた。この口号は富国強兵をめざす戦国諸侯の要請に合致し、さらに節用・節葬・非楽の口号も派生させた。そこには初期以来の特色である弱者支持の精神もなお残存したが、強力な領域国家への傾斜がめだち、権力者の法令・刑罰に依存して自説の拡張をめざす動きが少なくなかった。前四世紀後半から秦国に入り、その国策に協力した一派秦墨の存在は中期における典型であろう。このころ集団の組織はとみに充実し、用語や術語を定め、論理と表現とを鍛錬し、思想体系を整備し、儒家にならって経典を権威化するなど、学風・文風はともに活発であった。

後期墨家は伝統的な諸口号を温存しながらも、集団統率のきびしい論理を時務論に転化させ、尚同・天志の口号を唱えて、やがて出現すべき大帝国への理論提供を策した。あわせ唱えた明鬼・非命の口号も実は統一事業をめざす強国官民への激励の辞であった。中期にきざした事大主義は頂点に達し、法令・刑罰・軍備の重視と秩序への憧憬は最も顕著であった。彼らは強い団結を誇りながらも、他面では意外に分裂し、二墨から三墨となって相互に抗争しつづけた。彼らは権力に迎合しつつも、開祖の主張を全くは捨てきれず、権力階層から忌み嫌われ、前三世紀末、秦帝国の天下統一前後に旧派と新派とを問わず、解体ないし滅亡への道をたどった。

(東京大学中国哲学研究室編 『中国の思想家』より抜粋)

漫画や映画にもなった酒見賢一の小説『墨攻』は、理想から離れて秦に接近していく墨家集団において、まさに孤軍で理想を貫こうとする革離を主人公に物語が進む。もちろんフィクションであるし、表現の好みも分かれる作品だと思うけれど、戦国という現実における墨子集団のある種のリアリティを感じるところもあると個人的には思う。

 

『史記』を編纂した司馬遷は、墨翟に対して同情するところが少なかったのか、司馬遷の時代には墨翟その人についてはすでにはっきりしないところが大きかったのかはわからないが、墨翟のために伝を立てることはせず、「孟子荀卿列伝」の末尾にその名を登場させるにとどめている。

蓋墨翟宋之大夫、善守禦為節用、或曰、竝孔子時、或曰、在其後、

蓋し墨翟は宋の大夫にして、善く守禦し、節用を為す。或いは曰く、孔子の時に竝(なら)ぶ。或いは曰く、其の後に在り、と。

(『史記』 「孟子荀卿列伝」)

司馬遷の扱いはとても小さなものであるが、墨翟を始祖とする墨家は戦国時代においてはかなり大きな規模の集団になっていたようで、『荘子』や『荀子』にも名が登場する。

不侈於後世、不靡於萬物、不睴於數度、以縄墨自矯、而備世之急、古之道術有在於是者、墨翟禽滑釐聞其風而悦之、為之太過、已之大循、作為非楽、命之曰節用、生不歌、死无服、

後世を侈らしめず、万物を靡(かざ)らず、数度を睴(かがや)かさず、縄墨を以て自ら矯めて、世の急に備う。古の道術、是に在る者あり。墨翟・禽滑釐、其の風を聞きてこれを悦び、これを為すこと太(はなは)だ過ぎ、これを已(もち)いること大いに循(そむ)く。非楽を作為し、これを命(なづ)けて節用と曰い、生きて歌わず、死して服なし。

(荘子 天下篇 第三十三)

荘子』の「天下篇」は、先秦の諸思想に対する論評を通じて、荘子の哲学の立ち位置を示す内容になっており、比較哲学のような側面もあって、興味深い篇である。墨家が儒家や法家に続いて登場しているところから、それだけ存在感があったとも取れるように思う。

 

『荘子』は墨家の在り方について、「人々を愛して、平等に利益をわけ、他者に腹を立てずに、戦争に反対した」と評した上で、生きているうちには楽しむことをせず、死んでも葬わないという態度を要求しているのは、愛を説いているのに反して自分を愛することにならず、薄情で人を嘆き悲しませて、(本人はそれができたとしても)天下の人々を救うことにはならないだろうと批評している。墨翟は世界を愛していて、その想いも正しく、優れた人材ではあるが、世を治める方法としてはやり方がまずい。なかなかに本質的な指摘だと思う。

荀子』の場合は、「楽論篇」などにおいて、墨子がいかに物事がわかっていないかということを瞽(目の見えない人)や聾(耳が聞こえない人)に例えていたり、墨家の節葬を批判した上で墨者に対して瘠墨(セキボク、痩せて青黒い、極めて薄情)という呼称で呼んだりと、もっと直接的に批判している。

 

その理由は様々にあるだろうが、墨翟、そして墨子に対する感情は総じて冷たいように思う。墨翟や墨家集団の多くが士(貴族)の出身ではなく、工人であったと言われているが、そういった出自にも由来しているのかもしれない。

墨家の思想

幸田露伴は、その考証学的な著作である『墨子』において、墨家の思想について以下のように言及している。

儒墨は、両者同じく国家の安泰にして人民の生を楽しまんことを欲している。(中略)墨子は他の諸家の如くに国家に対して稀薄の思想を有し、又は之を軽視無視する如き非実際的理想的思想的のところはない。此点は儒家と同じである。墨子はその時代に於て用いらるれば直ちに国家人民の為に有利であると信ずる実行可能性を有する言を為したのであって、実際的であり、空言的で無いところを、其力強い存在の支持としている。(中略)すべて「実」を重んずるのは墨家の信条である。直ちに依って以て天下国家を済うべきものを道としている。此点に於ては孔子の学と其色彩こそ少し異なるものがあれ、性質と精神とに於て相通じ相同じきものがある。

ただ其の実行の形式、及び其の形式の内に存する精神に於て、儒墨は何様しても一致する訳には行かぬものがある。

(幸田露伴 『墨子』より抜粋)

墨家は儒家と同様、国家の安泰、人民の安寧に対する現実的で実際的な解決を志向している。その目的は共通しているが、方法はずいぶんと異なる。

 

孔子が生きたのが春秋であったのに対して、墨翟が生きたのは戦国である。戦国時代の始まりをいつとするかにはいくつかの考え方があるようだが、春秋の五覇の1人、文公重耳を輩出した晋が趙・魏・韓の三氏によって実質的に分割され(三晋)、いわゆる戦国七雄の枠組みに移行していくのが紀元前453年、これらの国が周(東周)から正式に諸侯として認められたのが紀元前403年とされており、紀元前479年に没した孔子は戦国時代の予兆を感じたに過ぎないであろうが、墨翟は力によって互いが奪い合い、既存の秩序の崩壊していく時代を生きている。目的は近いとしても、思想や態度が変わることは自然なことだと思う。

 

時代が違うから、主張が異なるということについては、孔子、孟子、荀子の差異にも同じことが言える。ただ、墨子にはそれだけでは説明できない視点の違いもある。

『中国の思想家』によれば、『墨子』の中でももっとも古いと考えられているのが、「兼愛上篇」と「非攻上篇」だという。これらの2篇も、墨翟本人の言行をどこまで描写しているかはわからないが、その中には弱者支持の精神があり、上下に関わらず他人を侵害して自利を図る態度に対する激しい批判が見られるという。

若使天下兼相愛、愛人若愛其身、猶有不孝者乎、視父兄與君若其身、悪施不孝、猶有不慈者乎、視子弟與臣若其身、悪施不慈、故不孝不慈亡有、

若し天下をして兼ねて相愛し、人を愛すること其の身を愛するが若くならしめば、猶ほ不孝の者有るか。父兄と君を視ること其の身の若くんば、悪(いづく)んぞ不孝を施さん。猶ほ不慈の者有るか。子弟と臣を視ること其の身の若くんば、悪(いづく)んぞ不慈を施さん。故に不孝不慈有ること亡し。

(墨子 兼愛上 第十四)

殺一人謂之不義、必有一死罪矣、(中略)當此、天下之君子、皆知而非之、謂之不義、今至大為不義攻國、則弗知非、従而誉之、謂之義、情不知其不義也、

一人を殺さば之を不義と謂い、必ず一死罪有り。(中略)此の当(ごと)きは天下の君子、皆知りて之を非とし、之を不義と謂う。今大いに不義を為して国を攻むるに至りては、則ち非とするを知らず、従ひて之を誉め、之を義と謂う。情(まこと)に其の不義を知らざるなり。

(墨子 非攻上 第十七)

この2つの節の主張は単純明快で、人々の安寧をシンプルに願う墨子の情熱を感じさせるものだと思う。他人の利益より自分の利益を、他国の利益より自国の利益を優先するがゆえ、不孝不慈が横行し、国々は奪い合ったり、侵略し合ったりすることをはばからない。人を殺せば罰せられるという当たり前のことを知っているはずなのに、君子と呼ばれる人たちは他国を攻めることを非とせずに、むしろ誉めて義を語り、記録に残す。権力者や君子たちのそういった態度に対する、強い憤りのようなものが墨翟にはあったのではないかと思う。

「利」に対する清潔な考え方は儒家にもあるが、墨子は利を求める心と態度を世界を分裂させる根源とみなし、拒利の精神へと発展させている。不孝(下の者が上の者を軽んじること)はもちろん、不慈(上の者が下の者を軽んじること)もまた、利を一方的に求めることから生じる。権力者や君子たちの「利」に対する都合の良い解釈と態度を批判し、人々の平和と安寧のために「利」そのものを拒んだのは、墨家の重要なルーツだと感じる。

 

墨家集団は、古代中国において論理学を発展させたと言われる。『墨子』の中でも特に難解とされる「経上下」「経説上下」の4篇は、彼らの論理学における用語集、定義集のような形式になっているが、その冒頭にある「小故」「大故」は、いわゆる命題における真偽の問題を扱っており、そういった厳密な論理を彼らが運用しようと企画したことが想像される。

[経]故、所得而後成也、
[説]故、小故、有之不必然、無之必不然、大故、有之必然、無之必不然、若見之成見也、

[経]故。得る所にして後成るなり。
[説]故。小故は、之有るも必ずしも然らず。之無ければ必ず然らず。大故は、之有れば必ず然り、之無ければ必ず然らず、見ることの見を為すが若し。

(墨子 経上 第四十 / 経説上 第四十二)

小故の場合、「AならばB」は偽であり、「AでなければBでない」は真である。つまり、BはAに包含されており、Aの方が範囲が広いような状態を小故(小さな因果関係)と呼んでいる。大故はもう少しわかりやすく、「AならばB」と「AでなければBでない」のいずれもが真なので、いわゆる同値や等価とされる状態であり、それを大故(大きな因果関係)と呼んでいる。

 

墨子は拒利の精神による平和の実現に向けて、実際に行動している。それだけの論理と技術、実践能力を持ち、守城を請け負って、強国の侵略から人々を守ろうとした。時代を下るにつれて、彼らは単なる戦争職人と見なされるようになり、権力者からも民衆からも見放されてしまったのかもしれない。理想と現実の狭間で論理に拘泥して、人心を解することに欠け、内部でも分裂を繰り返し、時代からは消え去ってしまったのかもしれない。

富国強兵の戦国時代において、弱者をも平等に愛する深い情を持ち、ある種の幼さを感じさせる理想主義と論理を掲げ、死を厭わずに実践しようとした情熱。そこには未成熟な青年の頑なさのようなものも感じるし、少なくとも当時の世に広く受け入れられることはなかった。

 

しかし、少なくとも初期墨家における根源的な精神と実践に対する強い信念には、目を見張るものがあるし、学ぶべきところもあると思う。

特に、強者・弱者といった立場や個人・国家といった条件を入れ替えても、奪い合いや殺し合いは好ましくないという義は変わらないという単純な真理と、それを貫こうとした態度は、個人的にはとても尊いものだと思う。

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