NHKラジオ深夜便の「絶望名言」という番組を書籍化した本を読んだ。内容はそのタイトルの通り、著名人の絶望的な名言や名文を紹介するというものである。
こうやって思想や哲学に関する文章を書いていると、ある程度は達観していると思われることも稀にあるのだけれど、実際の僕は不安や絶望に囚われやすく、人間的にとても不安定で、だからこそ、少しでも現実に対峙するための足掻きというか、ポーズというか、そういうことで学びを求めているのだと思う。
触れる意義
名言集や定義集を少し集めていた時期もあり、今回の『絶望名言』もそういう関心から手に取ってみたのかなと思う。モノゴトは常に多面的だなんて表現すると陳腐だけれど、同じものでもある時には希望になり、ある時には絶望になる。希望が絶望に、絶望が希望になることもある。あらゆるものは観てみないとわからないし、むしろ、観測によって初めて、その瞬間の一面に触れられると思う。一瞬たりとも、世界は同じカタチをしていない。
思想・哲学やその断片としての名言や定義というものも、実際にはそれを考えたり、言葉にしたりした人自身が、それを考えたり、言葉にしたりした瞬間でしか、本当のところはわからないものだと思う。それらの言葉はたまたま今の僕の前に、今の僕の文脈において登場するに過ぎないのだけれど、なんとか僕自身のヒントになればというので、言葉に触れている。
名言集というのはおそらくすべてが選ばれるに足る名言なのだろうと思うが、実際に自分の心に触れたり、すっと落ちてくる言葉というのはごく一部であるように思う。それは古典を読んでいても、名言集をめくっていても、なんなら学術書やビジネス書であっても、マンガであっても似たようなものだと思う。
僕という人間の、その瞬間に、たまたま触れる言葉を見つけるというのは、おもしろい行為だと思う。その言葉を本来の意味で理解できているわけではないけれど、それは僕の中に残って、僕の思考を助けてくれる。僕は僕の人生しか生きられないのだから、とりあえずはそれでも良いのだと思う。
昼夜、明暗、希望と絶望
「その瞬間の」とは言っても、触れる言葉というのは自分の中で永く残ってくれることも多い。座右の銘というほどのものではないけれど、「そうだよなあ」と感じる言葉がある。
話を『絶望名言』に戻すと、ゲエテの『タッソー』に出てくるという言葉が個人的には良かった。
人間は昼と同じく、夜を必要としないだろうか。(タッソー)
(『絶望名言』より抜粋)
僕は不注意な人間なので、私生活でも仕事でも、人と接するとかなりの確率で「ダメだなあ」、「至らないなあ」と思ってしまう。おそらく、人と接するのがそんなに得意でないというのはあるのだけれど、そんなに自分に期待しているつもりもないのに、自分の愚かさや醜さに悲しくなってしまう。意気揚々と振る舞って、その後に落ち込んでしまうのである。
この言葉は勇気づけられるというよりは、そうだよなあと思うし、とりあえずは日々を生きていくしかないと僕には感じられる。どちらが昼で、どちらが夜かはわからないけれど、良い時でも悪い時でもなんとか思考停止せずに生きていけるようにありたいなと思う。
なお、こちらの名言は番組パーソナリティである頭木さんの翻訳になっており、やや穏やかに整形されているため、この言葉だけ見ると絶望的でもないようにも感じる(むしろ、冷静な分析のようにも聞こえる)。原典のドイツ語、および岩波文庫での翻訳(実吉 捷郎 訳)では以下のようである。
Der Mensch bedarf in seinem engen Wesen Der doppelten Empfindung, Lieb’ und Haß.
Bedarf er nicht der Nacht als wie des Tags?
Des Schlafens wie des Wachens?
Nein, ich muß Von nun an diesen Mann als Gegenstand Von meinem tiefsten Haß behalten; nichts Kann mir die Lust entreißen, schlimm und schlimmer Von ihm zu denken.
人間はそのせまい本体のなかに愛と憎しみという二重の感情を必要としています。
人間にとっては昼と同じく夜も必要ではないでしょうか?
覚醒と同様、睡眠も必要ではないでしょうか?
いや、私は今後あの男を私の最も深い憎悪のまととして覚えておかなくてはなりません。あの男のことを悪い上にも悪く考えるという楽しみは、どんなことがあっても手放しませんよ。
(ゲエテ 『タッソォ』(岩波文庫)より抜粋)
『タッソー』の主人公である詩人、タッソーは狂気を宿した天才として描かれており、物語は破滅的なシーンで締めくくられるが、そんな彼が自身の狂気の正当性を説明しようとする文脈で、この言葉は語られる。タッソーにとっては冷静な言葉であるかもしれないが、周囲にとっては狂人の脅迫であるようにも感じられる。
それは、僕が『絶望名言』でこの言葉に触れた時に感じた情景とはすこし異なっていて、原文の文脈の方が人間の絶望的な側面を感じさせる。もしかしたら、ラジオで紹介するには少し危うきに過ぎるという配慮もあるのかもしれない。
若年のウェルテルではどちらかというと好意的に世に受け入れられた狂気が、中年のタッソーにおいては必ずしも好意的に扱われていない点も絶望を深めているように感じる。そう考えると、名言というのは文脈から切り離されて、切り取られて、誰かに示唆や共感を与えるのだなとあらためて思うし、原典に触れるきっかけを得ることのありがたさも感じる。
中島淳の『山月記』と、それに関連して紹介されていた言葉も腑に落ちるところがあった。むしろ、自分もこうだから、人と接するのが苦手なのかもしれない。
己の珠にあらざることを倶(おそ)れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、ますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらす結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。(山月記 『中島敦全集』 筑摩書房)
(『絶望名言』より抜粋)
こう考えると、自分はやっぱり臆病なのだなと思う。そして、『タッソー』で語られる昼と夜と、『山月記』で語られる自尊心と羞恥心は、なんとなく通じるところがあるようにも思う。それらの根底にある共通性に、僕の感覚が触れるということなのかもしれない。
絶望とは関係ないけれど、筑摩書房の『定義集』にある、権力に関する定義も好きな言葉だと思う。
人は権力に、いつでもあらゆる箇所において行使しうるものとしての実力を仮定するが、権力は実際にはその力を、ある一定の時機にある一箇所においてしか発揮出来ない。(ヴァレリー 「精神の政治学」)
(『ちくま哲学の森 別冊 定義集』より抜粋)
この言葉に対しても、僕は権力の暴力さと無力さという、相反しているようで一体であり、正気であって狂気でもある人間らしさを感じる。おそらく、僕はなんとなく人間をそういうものだと思っていて、自分を含めて、それにいかに対峙するのかが大切なのではないかと思っている。
昼夜も、明暗も、希望と絶望も、ポジティブとネガティブも、どちらかがすべてを解決するわけではないし、どのような力も、あらゆる時間、場所においても万能ということはない。
あらゆるものには、それが適切に機能する時と場というものがある。そういう感覚に対して、僕は「触れる」のかなと思う。