慈悲(じひ)

慈悲というのは単純にいうと、誰かの幸せを喜び(慈)、誰かの不幸せを悲しむ(悲)ことだと思う。言葉にすると簡単だけれど、それはとても難しい。他人の幸せを羨んだり、妬んだりする自分がいるし、他人の不幸せに安堵したり、気味よく感じたりする自分がいる。

そうだとしても、できることなら素直な思いやりを持っていたいと思うので、今回は中村元の著作を頼りにして、この「慈悲」という徳について考えてみたい。

慈悲の語源と意味

「慈悲」は仏教用語である。現代の日常生活ではそれほど多用はされないけれど、「慈悲深い」とか、「無慈悲」といった使い方もされる。ちなみに日常的に使われている言葉で仏教用語を出自とするものは意外と多く、「迷惑」や「四苦八苦」というのも仏典に起源があるという。

中村元によると、「慈」と「悲」はそれぞれに異なる語源を持っている。

「慈」と「悲」とはもとは別の語である。「慈」とはパーリ語の mettā、サンスクリット語の maitrī (または maitra)という語の訳である。この原語は語源的には「友」「親しきもの」を意味する mitra という語からの派生語であって、真実の友情、純粋の親愛の念、を意味するものであり、インド一般にその意味に解せられている。これに対して「悲」とはパーリ語及びサンスクリット語の karuṇā の訳であるが、インド一般の文献においては「哀憐」「同情」「やさしさ」「あわれみ」「なさけ」を意味するものである。

しからば、慈と悲とどうちがうか、ということが問題となる。南方アジアの上座部仏教においては、「慈」(mettā)とは『(同朋に)利益と安楽とをもたらそうと望むこと』(hitasukhupanayana-kāmatā)であり、悲(karuṇā)とは『(同朋から)不利益と苦とを除去しようと欲すること』(ahitadukkha-panaya-kāmatā)であると註解している。

中村 元  『慈悲』より抜粋)

一義的には、みんなに幸せであってほしいという気持ちと、不幸せであってほしくないという気持ちが融合して、関わりのあるあらゆる存在を大切にするのが慈悲ということだと思う。

なお、資料によっては「慈」と「悲」の意味が入れ替わっていたり、「慈悲」という1つの概念として解釈されていたりする文献もあるようである。

 

仏教では、お金を持っている人がそれを貧しい人や寺社に寄付すること(喜捨)を奨励するけれど、お金がないのであれば、同情する(心を寄せる)だけでも十分に良い行いだと考える。生きとし生けるものに対して、素朴であたたかな思いやりを持つことが仏教の重要な教えであり、中村元は「慈悲は仏教の実践の面における中心の徳」であり、「慈悲は仏そのものであるとさえもいわれる」という表現も使っている。

 

慈悲という言葉は、仏典がパーリ語やサンスクリット語から中国語に翻訳されて生まれた言葉であろうが、これらの漢字にどのような意味が込められているのかにも触れておきたい。

【慈】旧字は慈に作り、声符は茲。茲に孳生・孳育の意があり、その情を慈という。[説文]に「愛なり」とあり、慈愛の意。古く子の字をその義に用い、金文の[大盂鼎]「故に天、異(よく、翼)臨して子(いつく)しみ、先王を灋(ほう、法)保したまえり」、[也毀]「懿父(いほ)は廼(すなわ)ち是を子(いつく)しまん」のように用いる。慈はその義の形声である。

【悲】声符は非。[設文]に「痛むなり」とあって悲痛の情をいう。悲哀の意より、すべてその情を含むものに関して比茄・悲風のようにいう。(中略)非声の字には悲・悱・誹など、不安定な心情をいうものが多い。

白川 静  『字統』より抜粋)

仏典を漢訳するにあたって、当時の人々は mettā にまるで親が子を想うような愛を、karuṇā に胸が締め付けられて痛くなるような同情を感じ取り、その意味を込めたのかもしれない。

慈悲と三種の神器

日本には古来、指導者や統治者が所有する3つの宝、三種の神器という概念がある。これらは神話において天照大神によって天孫に授けられたり、豪族の古墳からそれに当たるものが出土したりしている。

三種の神器は鏡、剣、勾玉の3つで、もちろん権力を象徴する宝であるが、人の上に立つ者が身につけるべき徳(性質)とも関連づけられる。

 

例えば、大陸から入ってきた儒学の影響を受けて、鏡には智、剣には勇、勾玉には仁の徳が当てられたりするが、北畠親房は『神皇正統記』において、勾玉に慈悲の徳を当てはめているという。

『鏡は一物をたくはへず、私の心なくして万象を照すに、是非善悪のすがた、あらはれずと云うことなし。そのすがたは随ひて、感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり。剣は剛利決断を徳とす、智慧の本源なり。この三徳を翕受せずしては、天下の治らんこと誠に難かる可し。』

すなわち天皇は慈悲の徳を身に具現したものであらねばならぬのである。

中村 元  『慈悲』より抜粋)

また、徳川家康は『東照宮御遺訓』(上)において、慈悲が他の美徳の根底となるものであると強調しているという。

『抑和漢に古今不易の大宝有。大日本の大宝を三種の神器と云。此三種の数は、神璽、宝剣、内侍所也。神璽は神の印と云、其利は正直。宝剣は村雲剣と云、其利は慈悲。内侍所は鏡と云、其利は智慧。此三種の神徳は万事の根元にして、此慈悲を万の根元とす。慈悲より出でたる正直が誠の正直ぞ。慈悲なき正直は刻薄と云て、不正直ぞ。又慈悲より出でたる智慧が誠の智慧ぞ。慈悲なき智慧は邪智也。漢には此大宝を智仁勇と云。』

三種の神器を正直・慈悲・智慧という三つの徳に比定していることは、前掲の北畠親房の解釈を受けているのであろうが、ここではそれらのうちでも特に慈悲が根本の徳であるということが力説されている。したがって慈悲の精神の具現という意味では、さらに一段と深められているということができる。

中村 元  『慈悲』より抜粋)

原典に当たることはできていないが、これらの引用に基づくと、『神皇正統記』では勾玉に慈悲が当てられているのに対して、『東照宮御遺訓』では剣に慈悲が当てられている。

このあたりの正確な解釈は難しいが、徳川家康については当然、武家政治を前提にしており、武士の象徴である剣に根元となる徳を当てはめているということではないかと思う。

 

戦うための道具である剣に、慈悲を当てはめているという点も興味深く、そこは日本における武の精神のルーツになっているところもあると感じる。

智仁勇との関係性など、細かな解釈は難しいところがあるが、「慈悲より出た正直が本当の正直で、慈悲なき正直は刻(酷)薄」、「慈悲より出た智慧が本当の智慧で、慈悲なき智慧は邪智」というのは頷けるところがある。根底に他者を想う気持ちがあってこその美徳であると感じる。

慈悲における、現実的な問題

慈悲を実践することの難しさは、もちろん自分の心が邪魔をするということもあるけれど、現実的な弱さや葛藤をどう克服できるかという問題もある。

 

例えば、愛を求めたり、美しいものを愛したりしやすい人は、慈心によって迷ったり、愛情が欲情に転化したりすることがあるといわれる。

ナーガールジュナは慈心というものを個別的な一種の精神療法と考えている。すなわち怒りっぽい人には慈心を涵養させる必要があるが、貪欲のある人が慈心を起すと却って貪欲を増すから、いけない、というのである。

(中略)この見解は天台宗始めシナの仏教にも継承されている。

右の立言は慈しみが貪欲とつながるものがあるという事実を明らかにしている点で興味がある。慈しみとは人間的な愛情にもとづいているが、人間的な愛情は同時に欲情に転化する危険をはらんでいるのである。

中村 元  『慈悲』より抜粋)

慈しむ心は親愛に通じているが、他者を好ましく思う気持ちは、好きなものを求めて浸り、迷いを深めてしまいやすい。なんとなれば、貪欲に繋がるという。そのため、感性的な人が慈悲を修しようと考える場合には、注意が必要とされる。

 

また、身近な人々のための事業を投げ打ってまで、慈悲を施せるか、施すべきかという問題もある。極端な例として、鉄眼禅師は一切経刊行のために集めた資金を、飢えた人々に施してしまった。そういった行為は社会的な運動にはならなかったが、いくつかの例があるという。

人が何かを愛おしく思う時には当然、親疎による違いがある。仏教では親疎はもちろん、愛憎や人間という存在を超越して、慈悲が発揮されることを求める。人間という存在を超えて行為を求めるので、仏典では「人々」ではなく、「衆生」という表現が用いられるという。

 

さらに、罪人を裁いたり、場合によっては処刑することは慈悲から見た時にどう考えるべきなのかという問題もある。これに対しては、「世の為に善根を為す」という見解もあるが、「慈悲のための殺生はやはり悪であり、ただ人間のやむを得ぬ悪である」と考える人もいる。

中村元はこの問題について、以下のように締めくくっている。

悪人をただ憎んで処罰するというだけなら、それは単なる復讎にすぎない。現実の問題として悪人を処罰せねばならぬが、処罰しつつも、その人に対する慈悲心をもって合掌するという気持から真の倫理性が出て来るのであろう。

中村 元  『慈悲』より抜粋)

慈悲にどう向き合うか

仏教の根本には「縁起」の概念があり、慈悲も縁起を根拠にしている。あらゆるものは独立しては存在しておらず、それ自体の性質というものはなく、現象は関係や繋がりの中で揺蕩っている。

無関係なものは一切ない、というより、あらゆるものは自身と何ら変わらないのだから、それらを慈しみ、悲しむのはごく自然な性質で、それを妨げているのは無知であり、煩悩ということになる。人間の苦しみは彼我の境界にある。

 

悟りに至れば、そういった認識と心情、振る舞いが限りなく近くなっていくのかもしれないけれど、なかなか純粋に他者の幸せを願えないこともあるし、不幸に手を差し伸べられないこともある。

やはり自身がかわいいと思うし、自身に批判的な人、自身や世の中に害をなしていると感じる人を愛することは難しい。むしろ、憎く思って攻撃してしまうことも往々にある。人に留まらずに、ありとあらゆる存在に、その差異を超越して慈悲を施すというのも途方がない。

 

そうは言っても、個人主義だけで生きていくことは辛いし、現実としてそこまで強くあるのも、ほとんどの人にとっては難しいと思う。他者を思いやる理由が、自分が思いやってほしいからというのでも、とりあえずは仕方ないようにも思う。

まずは繋がりの中で現状を理解すること、希望を持って繋がりを手繰り寄せていくことが大切なのではないかと思う。繋がっていくということに対して思考して、その思考の中に優しさを込めていけると良いなと思う。

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