ああ 哲学は言わでものこと
医学に加えて法律学
無駄なことには神学までも
胸を焦がして 学びぬいたが
今ここにいる この阿呆は
昔とおなじ阿呆のままだ!
(ゲーテ 『ファウスト』(柴田翔訳)より抜粋)
ドイツの文豪ゲーテが20代から死の直前まで、ほぼ一生をかけて完成させた詩劇『ファウスト』の冒頭で、ファウスト博士がつぶやく一節です。
「知識というものは、うすっぺらな大脳皮質の作用だけで得られる」というのは、安岡正篤が繰り返し述べている言葉ですが、信念・行動力、さらには決断力・実行力を備えた知識、見識、つまりは胆識でなくては意味がない。
まさにその通りだと感じつつ、なかなか耳に痛い言葉です。
「知」は「矢」と「口」からなりますが、「矢」は古代中国では神聖なものであり、誓約の際に矢を用いるため、矢(ちか)うという読み方もあったとされます。武力を嫌う儒学においても、弓術は精神を鍛えるとされ、修練の科目に含まれます。
一方、「口」は白川静の説くところの「サイ」であり、祝詞を入れる器の形とされます。
つまり、
神に祈り、神に誓うことを知といい、「あきらかにしる、しる、さとる」の意味に用いる。神に誓ってはじめて「あきらかにしる、さとる」ことができるのである。
(白川静 『常用字解』より抜粋)
これを以て、知となします。
『荀子』の「修身編」には、
是是非非、謂之智、非是是非、謂之愚、
是を是とし非を非とする、之を智と謂い、是を非とし非を是とする、之を愚と謂う。
(荀子 修身編 三)
とあり、良いものを良い、悪いものを悪いとする意志力・信念を智(知)とします。智は矢と口(サイ)と干(盾)からなり、矢に加えて干(盾)を聖器として加えて神に誓うことを示した字とされます。
同様に『孟子』の「公孫丑上」には、「是非の心は智の端なり」という言葉も見られます。
いずれにしても、意志力・信念、さらには決断力・実行力を備えた知識でなくては知ではない。ファウストの憂いはそこに端を発し、2部にわたる悲劇へとつながると解することもできます。
20世紀最高の物理学者の1人であるアルベルト・アインシュタインはファウストと同様に博士(ドクトル)ですが、ファウストとは違い、知について明確な信念を示す言葉を残しています。
Intelligence makes clear to us the interrelationship of means and ends. But mere thinking cannot give us a sense of the ultimate and fundamental ends.
知性は方法や道具に対しては鋭い鑑識眼を持っているが、目的や価値については無為である。
(アルベルト・アインシュタイン 『晩年に想う』より抜粋)
訳は中村誠太郎、南部陽一郎(ともに理論物理学者、南部陽一郎は2008年にノーベル物理学賞を受賞)、市井三郎(哲学者)による訳本によっています。
「the interrelationship of means and ends(手段と目的の間の相互関係)」を「方法や道具」、「the ultimate and fundamental ends(究極的、根本的な目的)」を「目的や価値」と訳すべきかという議論はあるかもしれませんが、後者の「the ultimate and fundamental ends」は要するに「志」ということだろうと思います。
つまり、知性と志はまったくの別物である。知性は要するには道具に過ぎず、機械的なものである。もちろん、それは明確に有為ではあるが、志を作るものではないということだと思います。
老子は、
慧智出、有大偽、
慧智(けいち)出でて、大偽あり。
(老子 上編 第十八章)
と老子らしい逆説を用いています。賢(さか)しさ・知識によって、大いなる偽りが生じる。「偽」という字は形を見ると分かるように、「人が為すこと」です。
白川静によると、「偽」は元々は「変化して他のものとなる」という意味であり、「人の行為に偽りが多い」という解釈は誤りとされますが、人為による変化は偽りにつながるという意味が文字に浸透したと捉えても、個人的には問題ないように感じます。
そもそも「賢」という字に、「かしこさ」と「さかしさ」を双方の意味を持たせたところに、陰陽相対(相待)の東洋思想の奥深さを感じます。
いずれにしても、人の作為・道具・知識が過ぎると、偽りが生じる。志なき知識は、何を為すものでもない。むしろ、大いなる偽りがそこから始まってしまうということだろうと思います。
ファウストの言葉は詩劇的な極端な例ではあるかもしれませんが、「阿呆」にならぬように生きるべきだと感じます。
講談社
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