礼とは何か – 円満なる調和と秩序

「礼」とは何か。およそ存在するものはすべてなんらかの内容をもって構成されている。その全体を構成している部分と部分、部分と全体との円満な調和と秩序、これを「礼」という。

(安岡正篤  『知命と立命』より抜粋)

中国思想、そして日本において、「礼」は「徳」と並んで重要な概念だと思います。しかし、いかにも内面的な「徳」と違い、「礼」は日常の形式として親しみがあるため、かえって理解が難しいように感じます。

「礼」の意味合い、在り方について、個人的な理解を少しまとめてみたいと思います。

 

徳は人間を存在せしめる性質

「礼」を検討する前に、まず「徳」について。「徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳」という記事で以前に少し検討したことがありますが、要するに「人間の性質」のことを徳と呼ぶのだと理解しています。

道徳というものは、非常に誤解されておりますが、その本義は、単なる動物的生活ではなくて、意識・精神・霊魂を持った高級な人間の生命活動をいうのであって、道徳によって初めて人間は存在し、生活し、発達することができる。肉体で言うならば、飲食や呼吸と同じことであります。したがって生命を抑圧したり、一つの型にはめたりするのは決して道徳ではない。

(安岡正篤  『人物を創る』より抜粋)

「高級な」というと高尚なものという印象を与えますが、後半で「飲食や呼吸と同じ」と補足されているように、意識・精神・霊魂があるという点で「高級な」という表現を用いており、精神が維新していくための当たり前の活動、自然なる性質が「徳」であるのだと思います。

 

人が人であるという性質が徳である。そして、人は天の造化として発しているということから、徳は天を基点としています。天というと小難しく感じますが、要するに「自然」としてあるべき性質を持っているのが人というものである。

天行健、君子以自疆不息、

天行健なり、君子以て自疆(じきょう)息(や)まず。

(易経  乾)

天の運行は自然の道理に従う。例えば、朝から昼になり、夜が来ればまた朝が来る。そういう自然なる運行は健なるものであり、君子はそれに倣って、息をするように自らを養い続けるとされます。

人が何であるのか。どうゆう道理で存しているのか。それを知ることは、あらゆる探究の基点にあると感じます。

 

礼とは物の致りなり

徳を人の「性質」とした場合、そのような性質を持った人が集まって活動をする。その全体の調和・秩序が「礼」であるということであろうと思います。

 

『礼記』の「礼器篇」には、「礼とは物の致りなり」という言葉があります。「致」とは、

【致】字の初形は至人に作り、至+人。(中略)至は矢の到達点。そこに人が到る意。(中略)ただ到るのではなく、そこに赴き行為する意を含む文字であろう。(中略)占地のために矢を放って、その到達点に赴き、そこでことをはじめる意であろう。その境位に達することであるから、心の到り達するところを雅致・趣致のようにいう。

(白川静  『字通』より抜粋)

人が赴き、行為をすることによって致(いた)った境地、そこにある調和・秩序のことを「礼」と呼ぶのだろうと思います。それぞれが行為をしていった結果として、部分と部分、部分と全体が調和し、秩序が生じて治まるべき形になる。

そこに生じた形(具体的な形式)のことを「礼」と呼んでもよいし、そういう調和・秩序の在り方そのものを「礼」と呼んでもよいように思います。

 

最近、お話をした方から、「人間の身体は、各細胞がグローバルの環境と通信をして最適な振る舞いをしようとしているわけではないにも関わらず、全体として調和している」という話をお聞きしました。これは、身体活動における1つの礼の形であるようにも感じます。

 

『礼記』の「礼器篇」の冒頭は、以下のように始まります。

禮器、是故大備、大備盛徳也、禮釋回、増美質、措則正、施則行、

禮は器なり、是の故に大いに備はる。大いに備わるは盛徳なり。禮は回(まが)れるを釋(す)て、美質を増す。措(お)けば則ち正しく、施せば則ち行はる。

(礼記  禮器第十  一)

石が川に流されて下るに従って、まるくまるく美しく研がれていく。礼という器は、そういう美しさを持ったものであると感じます。ごつごつとした角が削れて、まるくなる。そこにある調和・秩序が礼である。

一方で、人は誰もがいびつです。そのいびつさを否定してはならず、調和としてそういう形があることを示しているというのは、忘れてはならない点だと個人的には思います。

 

どういう「まるさ」が真の調和・秩序であるかは、探究され続けなくてはわからない。人間は必ず未完成である。だからこそ、調和に想いを馳せることに尊さがある。

不自然さや違和感を学びに変えて、変化していくこと。それ自体が「礼」という態度であるようにも感じます。

 

具体的な形式としては、こうべを垂れて挨拶をすることかもしれません。それは古くからの、社会における調和の知恵である。その形式の意味、調和性・秩序性に想いを馳せることが大切であると感じます。

「徳」が内面を見つめ、自然なる衝動から自らを磨き、修める営みを大切にするのに対して、「礼」にはある意味での畏れがある。人が生きるに際してのいびつさに対する畏れが、「礼」の要点であると感じます。

 

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