曖昧さと確かさ、孤独と寂しさ

国語という教科は、広い意味での文科学、ないしは人文的な知識の代表という意味があるのに対して、算数の方は、広義の理科的なものの基礎をなす教科といえましょう。つまりこういうわけで、国語と算数とは、広義におけるわれわれ人間の人文的な教養と、理科的自然科学的な教養とに対して、それぞれ基礎的基盤的な意味をもっているわけです。

(森信三  『理想の小学教師像』より抜粋)

生きるということは、おそらくとても曖昧で、だからこそ取り組む意義があるように思います。しかし、曖昧ばかりでは生きていけないので「確かさ」は必要で、一方で本来は確からしくはないということを忘れてはならない。

学問を分けて論じるのは便宜上の問題で、本来的な教養とは合一的なものだろうとは思いますが、代表的な国語と算数という科目を題材に、学問の意義を考えてみたいと思います。

 

確かなものは「確か」である

数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。

(岡潔  「春宵十話」より抜粋)

「曖昧さ」とは言い換えると「確かでなさ」です。そして、何が「確かでない」かを知るためには、何が確かであるかを知らなくてはいけない。そこに数学(算数)の効用があるように思います。

 

数学の有名な問題に「バナッハ=タルスキーのパラドックス」というものがあります。つまり、「どれも空でないような集合を元とする集合(すなわち、集合の集合)があったときに、それぞれの集合から一つずつ元を選び出して新しい集合を作ることができる」という「選択公理」を認めると、「有限個の部分に分割し、それらを回転・平行移動操作のみを使ってうまく組み替えることで、初期の球と同じ半径の球を2つ作ることができる」ことが証明できる。

これは、「選択公理」を確からしいとする世界の上では確かである。その「確かさ」は決して、揺るぎません。もし、この「確かさ」を疑って崩してしまうと、人は確かさを議論できなくなってしまう。

 

確かさを議論できないということは、曖昧さも議論できないということです。曖昧さは確かさが届かないから曖昧なのであって、確かさ自体が曖昧であれば、すべてが曖昧になってしまい、曖昧さを議論することが意味を失います。

ここで大切なのは、「バナッハ=タルスキーのパラドックス」は直感には反しているが、確かであるということです。ここで初めて、知性を以って曖昧さの所在に思いをはせることできます。

 

シンプルに言うと、要するに「選択公理」のどこかに誤り、あるいは、我々には知覚できない真理が含まれているということになります。そこから初めて、知性の働きを試すことができる。

 

岡潔の文章を読んでいると、彼は直感(直観)的でない数学を好まず、証明の上に証明を重ねて、ほとんど知覚できない遊戯になってしまったような数学を嘆いているように感じます。

「選択公理」の例でいうと、「球を複製できる」という証明の上に「1があれば、無限を生成できる」という議論を重ねても無意味である。

 

得てして人は「確かさ」を信じるあまり、確かでない生き方をしてしまうようにも思います。そして、それが「確かさ」の副作用であろうと思います。

 

寂しいのではなく、孤独である

私は屡々思う事がある、もし科学だけがあって、科学的思想などという滑稽なものが一切消え失せたら、どんなにさばさばして愉快であろうか、と。合理的世界観という、科学という学問が必要とする前提を、人生観に盗用なぞしなければいいわけだ。

(小林秀雄  『偶像崇拝』より抜粋)

算数の効用は「確かさ」にありますが、「確かさ」はいつの間にか「正しさ」にすり替えられてしまいがちです。しかし、「確かさ」を「正しい」とするのは正しくはない。

小林秀雄の主張は、効用の有効性を以って、前提とする世界観の正当性としてはならないと教えているように感じます。

 

現実には不確実さ・不可解さ・疑惑が存在します。そして、それはどうも「確か」ではないらしいが、確かに在る。

それをそのまま受け入れる能力、つまり、「人が不確実さとか不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めていらいらすることが少しもなくていられる」能力を、キーツはネガティブ・ケイパビリティと呼び、言葉を扱う能力との相関を指摘しています。

 

国語の効用とは、自らの世界を構成する言葉に対する認識を深め、在るものをそのまま受けとめて表現する方法、少なくとも、そういうものの存在を認識する力を養うことだろうと思います。

 

ハンナ・アレントは、孤独を「自分自身と共に在り、語り合う行為」、寂しさを「際限なく他人を求める行為」とし、寂しさを利用したのが全体主義であると論じていますが、算数の副作用に囚われるとは「寂しさ」であるようにも感じます。

他人を求めることは悪くない。それは、自らの確からしさを検討する方法です。しかし、節度を失ったその先にある「寂しさ」は人間から大切な何か、おそらく曖昧さという真理を奪っていくように思います。

 

生きるということは「孤独」ではあるが、「寂しい」のではない。個人的にはそう思い、それ以上に、そう在りたいと思います。そして、これこそ人間の「基礎的基盤的」な教養ではないかと感じます。

 

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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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