観察と知の発達 – 『モオツァルト』と天才性

天才とは努力し得る才だ、というゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されていない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。(中略)天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るという事が屡々起るのか。

詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌うからだということになろう。自由な創造、ただそんな風に見えるだけだ。制約も障碍もない処で、精神はどうしてその力を試す機会を掴むか。何処にも困難がなければ、当然進んで困難を発明する必要を覚えるだろう。それが凡才には適わぬ。

(小林秀雄  『モオツァルト』より抜粋)

日常の中に「困難」を発見(発明)し続けるという行為は天才にのみ許された努力である。もちろん、その観察能力は天才に及ばないとしても、日々をつぶさに観察するという行為はとても大切だと思います。

 

「容易でないもの」の効用

人間にとって、容易でないもの、理解できないものは危険である可能性があります。脳がエネルギーを用いて、その意味を新たに判断をしなくてはいけない。よくわからないので、感覚的にはモヤモヤとしてしまう。

これは生きようとする人間の性質からすると、非常に生物的な反応なのだろうと思います。

 

しかし、効率的な生からすると、ずっとモヤモヤしている(エネルギーを消費している)状態は効率が悪い。どうすればこのモヤモヤが解消されるか。

対象を理解して自分の世界観に取り込むことができれば、この状態が終わります。新しいものの意味合いが自身の世界観の中に配置され、世界観が更新されればモヤモヤしなくなる。これも人間の本能的な反応だと感じます。

 

理解できないものとして1つのわかりやすい例が「新しいもの」、「見たことがないもの」だろうと思います。そういったものはシンプルに「容易でないもの」、「理解できないもの」である。

そして、「新しいもの」の正体を考えると、それはただ純粋に「新しいもの」ではなく、自身にとっての「新しいもの」である。そこには、自身が観察するという前提があります。

 

観察という行為は、自身の意識から切り離してはできません。神経科学的には、脳は情報を常にフィルタリングしており、実際に処理するのは受信している情報の1000分の1とも言われるそうです。

つまり、観察という行為には自身がどのように世界を認識しているのかという情報が含まれています。

 

通常、人間(の脳)はエネルギーを消費する「容易でないもの」を嫌い、それが存在を脅かさないのであれば、そもそも情報が処理されるところまで届かないことも多い。天才の才能が「容易でないもの」への探求にあるとすると、天才は世界を観察する能力に類い稀に優れているということもできそうです。

さらに、普通はモヤモヤしている状態は嫌なので、何かを思い込んで、それ以上は考えなくてよいようにします。そういう意味で天才とは、強い思い込みを持つ人ではなく、「(普通の)思い込み」を拒絶せずにはいられない人なのかもしれません。

 

いずれにせよ、日々に「容易でないもの」、「理解できないもの」が日常的に含まれるということは、それ自体が非常に重要な意味を含んでいると感じます。

 

ネガティブ・ケイパビリティという能力

特に文学において偉大な仕事を達成する人間を形成している特質、シェイクスピアがあれほど厖大に所有していた特質、それが何であるかということだ ― 僕は「消極的能力(ネガテイヴ・ケイパビリティ)」のことを言っているのだが、つまり人が不確実さとか不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めていらいらすることが少しもなくていられる状態のことだ ― たとえばコウルリッジは半解の状態に満足していることができないために、不可解さの最奥部に在って、事実や理由から孤立している素晴しい真実らしきものを見逃すだろう。

(キーツ   『詩人の手紙』  「1817年12月27日  ジョージ及びトマス・キーツ宛」より抜粋)

世の中というもの、そこで生きるということを考えると、それはもう不可解以外の何物でもないと個人的には思います。

それに対してうまく生きる方法がある、かつ、それを方法論化できるなどというのは、大いなる「思い込み」なくしては成立しないことのように思います。

 

キーツの指摘する「ネガティブ・ケイパビリティ」は、小林秀雄の「天才の努力」にも通じるように感じますが、要するに、不可解であることはまったく不可解ではないと思える能力であるように思います。

世界の不可解さを困難さとして、そのまま受け入れることができる。そうして初めて、世界について議論をすることができます。

 

ただ純粋に観察し、「思い込み」に囚われずに世界を新たに発見し続けることができる。事実や理由を求めていらいらすることなく、その中の困難さに向き合い、認識を新たにし続けることができる。

 

『大学』の中に、古代の聖王である湯王の時代の水盤にある、

苟日新、日日新、又日新、

苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ。

(大学  第二章  三)

という銘文が紹介されていますが、まさにこのように生きることが知を磨くことであり、それには純粋な観察と不可解さをそのままに困難さとして飲み込む能力が必要であり、それに優れた人間が天才ということだろうと思います。

 

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