寺田寅彦の学問観 – 『柿の種』より

このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向けに落ちるわけを、だれか研究した人があるか、と聞いてみたが、たぶんないだろうということであった。

花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。

学問というものはどうも窮屈なものである。

(寺田寅彦  『柿の種』より抜粋)

寺田寅彦は明治から昭和にかけて活躍した物理学者です。私が大学時代にお世話になった先生が、寺田寅彦坪井忠二竹内均という地球物理学の系譜を受け継ぐ方だったこともあり、個人的にはとても尊敬する人物の一人です。

 

粟一粒  秋三界を  蔵しけり

寺田寅彦の随想を読んでいると、机上の科学ではなく、現実を解するための学問を非常に尊んでいるという印象を受けます。有名な「金平糖の角の研究」や「ひび割れの研究」は統計力学的な業績である以上に、世界を純粋に理解したいという、人としての欲求を感じます。

鈴木大拙に「無限に関心を持つことが宗教」であるという言葉がありますが、現実世界は粟の一粒に秋のあらゆるすべてが含まれているほどに無限を孕んでいる。

 

ビジネスという場では、「解けない問題を解こうとすること」はもっとも愚かであるとされます。いわゆる「イシュー」の第一条件は、今ある方法で解けることであると。

もちろん、それはそれで非常に意味のある考え方で、現実を押し進める上では重要な視点です。ただ、それは境界を引き、世界を知った気になることに過ぎないとも感じます。

 

現実は本質的には解けない。ただ、解けないからといって、解かないわけにはいかない。おそらく「学問」、学んで問うということはそういうことで、その態度を持てるかどうかはとても大切な問題だろうと個人的には感じます。

 

現実の意味を、現実に即して考える

寺田寅彦の学問観は、とても東洋的であるとも感じます。いわゆる東洋では、学問に4つあると言われます。つまり、経・史・子・集がそれで、「四部の学」というように呼ばれたりもします。

「経」とはある一定の体系を学ぶこと、「史」とは歴史や地理を学ぶこと、「子」とは素晴らしい人物の言行を学ぶこと、「集」とは文学・芸術作品を学ぶことというのが、おおよその意味とされます。

 

学問というと、「経」を想像しがちである。しかし、現実の問題は、現実に即して考えれば考えるほどに、現実的にある1つの「経」では解けないということになります。解けるというのは、一種の傲慢である。

だからこそ、「史」を学び、「子」を学び、「集」を学ぶ。また、「無限への関心」を持ち続けることができるかどうかが重要になるのだろうと思います。

 

なお、冒頭の椿の花について、寺田寅彦は、

落ちた花の花粉が落ちない花の受胎に参与する事もありはしないか。

(寺田寅彦  『柿の種』より抜粋)

と考察しています。また、「落ちざまに虻(あぶ)を伏せたる椿かな」という夏目漱石の句が、実景か空想かといった議論にも参考になる結果が得られるであろうと記しています。

 

もちろん、解ける問題を解いて、社会的に意味があるとされる活動をしていくことは何よりも必要で、それをすることは大前提だろうと思います。一方で、こういった「学問」的な態度にもやはり憧れを抱きます。

 

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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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