教育の方法 – 褒めるべきか、叱るべきか

教育を次のように定義した人の機知は、けっして誤ってはいなかったのです。すなわち、「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているところのものである」と。

(アインシュタイン  「教育について」より抜粋)

「教育について」はアインシュタインが1936年に発表した文章で、『晩年の想う』の第1部に収められています。自身の学生、教師としての体験を基にした主張と断った上で書かれていますが、「教育」というものについて、非常に核心的な文章だと感じます。

 

師弟関係 – 褒める・叱るではなく、導く

このたび、友人からのご縁があり、小学校で教師をされている方やその他、様々なバックグラウンドを持った方と「褒め方・叱り方」というテーマでディスカッションをさせていただきました。

今回はこのテーマに対して、主に中国の古典や日本の書物から何かヒントはないかと探し、考えたことなどを、備忘の意味も込めて書くことができればと思います。

 

まず、「褒める」「叱る」ということが中国や日本において、どのように考えられてきたのか。それを知るために、『論語』や『孟子』、『荀子』、『礼記』などの中国古典、貝原益軒の『和俗童士論』、佐藤一斎の『言志四録』、吉田松陰の『講孟箚記』、森信三の『修身教授録』などを引っ張りだして、探してみたのですが、あまり「褒める」「叱る」に関する記載が見られないという壁に当たりました。

 

「褒める」「叱る」は、『韓非子』などの権謀術数を説く書物にはもちろん出てきて、むしろ政治の根本原理として説かれるのですが、それらはあくまで政治の手段であり、「教育」という文脈ではあまり見られません。

もちろん、厳しくしつけることの重要性は多くの書で説かれており、朱子がまとめたとされる『小学』などは、その方法を取り上げています。しかし、「褒める」「叱る」によって人を動かすことは、東洋ではやはり、権変的な印象を感じます。

 

では、東洋における「教育の方法」とはどのようなものか。それは、孔子とその弟子たち、吉田松陰と桂・高杉・久坂といった子弟たちとの関係のように、「ともに学ぶこと」が前提にあるように感じます。

もちろん弟子たちは師を尊敬していますが、それは一方的な上下関係ではなく、むしろ人格を高めていくための仲間である。師も弟子たちから学んでいる。吉川英治の「われ以外皆師也」という言葉は、それをよく表現していると感じます。

 

フロイト、ユングと並んで「心理学の三大巨頭」とされるアルフレッド・アドラーは、「褒める」も「叱る」も子どもが自分より下の存在であるという前提に立った行為であり、本当に必要なことは「勇気づける」ことであるとも主張しています。

 

東洋における学問の態度

そもそも、学問はどのような態度で行うべきか。実は、別に洋の東西で違いがあるとはあまり思っていないのですが、例えば、

古之学者為己、今之学者為人、

古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。

(論語  憲問第十四  二十五)

のように、あくまで自らのために学びがあるとする態度。また、その目的は、

それ学問は心の汚れを清め、身の行ひを良くするを以て本実とす。

(中江藤樹  翁問答)

とする考え方などは、単に知識を授けることが「学問」、教える立場からすると「教育」の目的ではないことを表現していると感じます。

さらに、吉田松陰の「学問の道は死して後已む」とする思想、佐藤一斎の「三学戒」などからは、人生の時宜に照らしながら、死ぬまで学び続けることが、学問の前提に置かれていると感じます。

 

学ぶのは別に誰かのためであったり、「通(世の中でうまく立ち振舞う)の為ではない」。あくまで自らの感動のために学んでいるのであり、その感動をともに分かち合うのが子弟である。

もちろん、1つの考え方に過ぎず、理想論でもあると思いますが、私自身は学問のそのような側面に魅力を感じます。

 

悦びを喚起し、鐘を撞くように応える

では、そのような考え方の中で、具体的に子弟を導く方法がどのように説かれるのか。冒頭でご紹介したアインシュタインの「教育について」の中では、以下のような一節があります。

学業や人生におけるもっとも重要な動機は、仕事とその結果とに対する愉悦と、その結果が社会にたいして価値をもつと知ることです。若い人々にこの心理的な力に目覚めさせ、またその力を強化することは、学校の果たすべきもっとも重要な任務であると思います。このような心理的基礎があってこそ、人間の最高の財産、すなわち知識と芸術家的仕事ぶりへの、嬉々とした欲求がもたらされるのです。

(アインシュタイン  「教育について」より抜粋)

自らの行為とその結果に対する悦びに、どのように目覚めさせるか。その点が、嬉々とした欲求を持って生きる人間を生み出すためには非常に重要であるということだと思います。

 

また、「啓発」という言葉の語源でもある、

不憤不啓、不悱不発、

憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。

(論語  述而第七  八)

知ろうとしても理解できず、自身にいきどおるようにならなければ教え導かないし、言葉で表現しようとしてもうまくできず、もどかしくて苛立つようにならなければ、教え導かない。

これは孔子が弟子たちを教え導く際の指針にしたものだと思いますが、教育は外から与えるものではなく、学ぶ者の内から潜在能力を引き出すものであるという想いが感じられます。

 

さらに、

善待問者、如撞鐘、叩之以小者、則小鳴、叩之以大者、則大鳴、

善く問いを待つ者は、鐘を撞くが如し。之を叩くに小を以てすれば、則ち小鳴し、之を叩くに大を以てすれば、則ち大鳴す。

(礼記  学記第十八)

質問に応えるのがうまい教師は、まるで鐘を撞くようでもので、小さく叩けば小さく鳴るし、大きく叩けば大きく鳴る。やみくもに、また、画一的に応えるのではなく、鐘のように応える。

 

子どもだからといって、それを「小さな大人」と見てはいけない。あくまで、学びの悦びを分かち合う仲間であると見ることが肝要である。これが絶対的に正しいとは思いませんが、1つの考え方として、大切だろうと感じます。

 

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