徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳

大学之道、在明明徳、

大学の道は明徳を明らかにするに在り。

(『大学』)

日本、東洋において人物・修養を考えるとき、「徳」という概念がしばしば登場し、「あの人は徳がある」、「不徳の致すところ」といった表現が自然に使われます。そして、それは特定の思想に限定されたものでなく、孔孟の儒教、老荘の道教、そして日本の神道、また武士道といったあらゆる思想・文化において現れます。

しかし、「徳とは何か」と問われるとよくわからない。おぼつかないながら、この「徳」という問題について少し論じてみたいと思います。

 

「徳」は「道」が人間に発したもの

私が「徳」について、なんとなく輪郭を感じたのは以下の一節です。

「徳」とは「宇宙生命より得たるもの」をいうので、人間はもちろん一切のものは「徳」のためにある。「徳」は「得」であります。それには種々あって、欲もあれば良心もある。すべてを含んで「徳」というのであるが、その得た本質なるものを特に「徳」という。

そして、我々の「徳」の発生する本源、己れを包容し超越している大生命を「道」という。だから要するに「道」とは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以のもの、これなくして宇宙も人生も存在することができない、その本質的なものが「道」で、それが人間に発して「徳」となる。

(安岡正篤  『人物を創る』より抜粋)

つまり、根本、大本は自然である。「徳」というと、何か人為的に生み出された形式であるように思われがちですが、決してそういうものではない。自然の運行(「道」)があり、それが人間に発して「徳」である。

 

例えば、私たちが親に感謝したり、恩師を尊敬したりする気持ちは、決して「教えられた」ものではないと思います。それは人として自然に発生する感情です。

だから、「徳」には「美徳」もあれば「悪徳」もある。それは人間が自然に有するものです。「欲望」も「才知」も「徳」の一種である。「徳」は人間において、無限に分化・発達していると捉えることもできます。

 

ただ、分化・発達すると矛盾が生じます。「才知」に走り過ぎて、「敬愛」を忘れたりする。この人間の性質において、本質が何かを自覚しなければ、神経衰弱・人格破綻を引き起こしてしまう。そこで、人が本来的に持つもっとも本質、大切なものを特に「徳」と呼びます。

 

「才知」と「敬愛」のどちらが本質か

「才知」と「敬愛」のどちらが本質かという問題については、主義の問題かもしれませんが、より不変的なものである「敬愛」が本質と私は思います。

 

例えば、現代では小学生でも「地球は太陽の周りを回っている」ということを知っていますし、高学年にもなれば「水という物質は水素原子と酸素原子が2:1で結合して構成されている」ということを知っているかもしれません。これは「才知」の作用であり、人間が持つ素晴らしい「徳」の1つです。

 

ただ、このような知識を知らないからと言って、三国志の劉備を現代の小学生より劣っていると見るか。聖徳太子や徳川家康、吉田松陰、西郷隆盛を愚者とするかというと、そんなことは決してないと思います。

彼らにはもちろん才もあったと思いますが、人心を感化する威があり、徳があった。それでこそ、偉業を為すことができ、我々に感動を与えるのだと思います。

 

「才知」は1つの例に過ぎませんが、何を人間の本質とし、重視するかはとても大切な問題だと思います。

 

玄徳 – 『老子』の徳

生而不有、為而不恃、長而不宰、是謂玄徳、

生じて而も有せず、為して而も恃まず、長となりて而も宰たらざる、是れを玄徳と謂う。

(老子 上編 第十章)

『老子』には「玄徳」という概念が出てきます。これは、「自然」をもっとも本質とする概念です。人が持つ、もっとも自然な性質は目が見える、耳が聞こえる。そして何より、「生きている」ということです。

 

それをそのまま、出来るだけ「自然」に受け入れる。「自然」は何かを所有したり、期待したり、取り仕切ろうとはしない。ただ、そのままに在る。これが「玄徳」が目指す姿であり、これは「真」の生活です。

 

明徳 – 『大学』の徳

一方で儒学では「明徳」を説きます。儒学の入門書ともいわれる『大学』の書き出しが冒頭でご紹介した、

大学之道、在明明徳、

大学の道は明徳を明らかにするに在り。

(『大学』)

です。『老子』の「玄徳」は自然であり、自覚できないあらゆる自然を包含しますが、修己治人(自己を修め、人を治めること)を目的とする現実学問である儒学の「明徳」はより自覚的な生活です。

 

少し概念的ですが、太陽光が7色の連続スペクトルとして認識されるのは、地球の大気の作用であり、また人の目がその波長域しか認識できないからです。太陽光は本来、それらの色閾以外も含んでいます。

ただ、現実生活からすると後者の太陽光そのものより、前者の知覚できる「太陽光」をどう活かすかが重要な問題です。現代では可視光以外のエックス線の活用などもありますが、要するに現実に即して捉える。これが儒学の立場、「明徳」の立場です。

 

意識にのぼり、感覚で捉え、知性・理性によって把握するのが「明徳」の世界です。「玄徳」から「明徳」が発しているとも言えますし、「明徳」を極めれば「玄徳」に至るとも捉えることができます。

 

陰徳 – 徳を積む

何を大切に想うかは自覚の深さによりますが、その自覚した本性、つまり「徳」を静かに実行すること。他者の評価のためでなく、自己のために押し進めることを「陰徳」と呼びます。

この「陰徳」の積み重ねがいわゆる「徳を積む」ということ。「徳がある」、「不徳の致すところ」と言うときの「徳」とは、この「陰徳」をいかに積んだかを表現する言葉です。

 

そして、その「徳」に我々は感じ、動かされる。「徳」というと小難しいですが、思いやりがあり、人のために智慧を活かし、人同士の衝突や感情を適切にさばいていく人物を尊敬する。

「徳を積む」とは、人として「素朴に生きる」ことだとも思います。

 

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徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳” へのコメントが 2 点あります

  1. 始めまして小林明峯(あきみね)と申します。どうぞよろしくお願いいたします。ブログを拝見させて頂きました。感銘を受け、先生のブログ記事を少しばかり私のブログで紹介を致したいのですが、よろしいでしょうか?「徳」について考察をしております。ご許可頂ければ幸いです。お願い申し上げます。

    小林

    • 小林さま

      コメントいただき、ありがとうございます。返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。

      記事にご興味を持ってくださり、ありがとうございます。「先生」などということはまったく無く、不勉強なところが多く大変恐縮ですが、ご紹介いただくのは自由ですので、よろしければご紹介くださいませ。

      瑞月

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