気の帥たる志を養う – 『王陽明研究』より

往々頑迷な儒生や、隠遁者流は、断つべからざる欲望そのものを否定して、一切の快楽や幸福を無視する不可能的生活を以て道徳として悟道としている。一例を引くと、長上の前へ出てはいいたいこともいわず、したいこともしないで、かたくなっていることが礼であるかのように、また骨肉の愛も棄て、衣食の欲も断つことが悟道であるかのように考えている者も少なくない。

かくて道徳とか悟道とかいう名の下に、かかる不可能的克己を自他に強うるところから、克己とは非常に窮屈な、堪え難いことに思われるのであって、もとより当然のことといわねばならない。

これに反して、克己とは最もよく自己を実現することである。礼とは同様に自己の真をつくすことである。すべて真の道徳的生活はもっと自然であり、寛やかでなければならない。

(安岡正篤  『王陽明研究』より抜粋)

『孟子』において気の帥とされる「志」ですが、実際問題としていかに養い、固めるかという工夫については述べられていなかったり、既存の価値観の押し付けになっていると感じることが多くあります。

 

志 – 心が目指し、向うところ

「志」とはその名の通り、「心が目指し、向うところ」です。白川静によると、上部の「士」は元々は「之」の形であり、之は行くの意味であるから、心がある方向を目指して行くことを志というとされます。詩経には、

詩は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す。

(詩経  大序)

とあり、心の本性自体が「志」であり、それが言葉として発せられたものが「詩」であるという思想が見られます。

 

つまり、「志」とは心が持つ本性であり、「志」を養うために必要なことは心の本性を自覚することです。陽明学では、朱子学の形式に囚われた「志」は実生活に活かされないとし、深く自己を掴むことを要求します。

そして、自己の心に従い、最もよく自己を実現することを基準として善悪を判断します。善悪は決まったものではなく、心の本性に従って、個々人がそれぞれ持つものです。

 

この考え方は、社会通念的な善悪を越えたところに判断の基準を置くため、革命思想につながります。一方で、朱子学は一旦、既存の道徳観を受け入れる。これが、朱子学が支配階級に採用され、陽明学が弾圧される理由の一つです。

 

自己の内面的欲求を自覚する

同じく、安岡正篤の『王陽明研究』では以下のようにも述べられています。

普通克己といえば、常人の容易に堪え難い無理不自然なことのように思われる。

しかし実際は止むに止まれぬ自己の最大最深なる内面的欲求を実現するために、いいかえれば箇の生命を露堂々に躍進せしむるために、雑多なる欲求を一括し統制する作用である。みづから愛するの深きが故に、みづからみづからを牽束するのである。

「止むに止まれぬ自己の最大最深なる内面的欲求」の自覚こそがまず為すべきことであり、それが克己となります。吉田松陰の「かくすれば  かくなるものと知りながら  已むに已まれぬ大和魂」という歌は、まさにこの心境だと感じます。

 

自覚された本性、つまり志を持って、自己の雑多な要求をどう処理するか。例えば、どんな本を読むべきか、誰に会うべきかはこの最も深い欲求によって統制されます。

卑近な例ですが、読みたい本があるが、友人に呑みに誘われた。どちらを選ぶかは、自己の最大最深なる内面的欲求を知っていれば、おのずと明らかになる。その意味において、「志」は日々の生活の一つ一つを支配するもの(帥)となります。

 

機械的生活からの脱却

まずはこの自覚から始まりますが、「志を固める」、「志に立って生きる」ためには更なる修養が必要です。『論語』の「為政編」にある有名な一節がそれを教えています。

吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。

(論語  為政第二)

これは孔子自身の言葉として伝えられており、十有五において心の本性、「志」が人格修練の学にあることを自覚したが、その「志」が立つ、つまり確固たるものとして脅かされなくなったのは三十歳であり、常に立てた「志」に従って善悪の判断ができるようになり、惑わなくなったのは四十歳と言い残しています。

 

自己の本性を知らないことには、とりわけ刺激・誘惑が多く、煩雑・多忙になりがちな現代においては、人の精神を犯すことにもつながります。これについては、同じく『王陽明研究』で述べられている、

機械の発達、分業の細微、都市の勃興などは社会組織に大いなる動揺変化をきたし、次第に人と自然、人と人との親近は割かれ、人は機械化し、偏頗(へんぱ)になり、衆団に没却されて、人間が一個の人格者として活動するのではなく、ある目的のために動く機械として取扱われ、盲目的・他律的・衝動的生活に甘んぜざるを得なくなった。しかも社会活動の欠陥や生活費の多端は絶えず人間の不安を深め、その機械的役使を過度にした。

という指摘が的確だと感じます。

 

そもそも、天という自然の本性が道であり、人間においては徳とされるにも関わらず、自然を感じず、人間が本来有する愛敬の心が枝葉末節の知識や技術によって犯されている。

この問題意識と本性の自覚を深めることこそ、「志」を養う第一歩だと感じます。そして、自覚を持った生活それ自体が人格修練であり、それは楽しいものであろうと思います。

 

王陽明研究
王陽明研究

posted with amazlet at 13.10.26
安岡 正篤
明徳出版社
売り上げランキング: 40,808

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です