妍に誇らざれば、誰か能く我を醜とせん

有妍必有醜、為之対、我不誇妍、誰能醜我、有潔必有汚、為之仇、我不好潔、誰能汚我、

妍(けん)あれば必ず醜ありて、これが対を為す。我、妍に誇らざれば、誰か能く我を醜とせん。潔あれば必ず汚ありて、これが仇を為す。我、潔を好まざれば、誰か能く我を汚さん。

(菜根譚 前集 一三五)

美しさがあれば必ず醜さがあり、清さがあれば必ず汚れがある。あらゆるものは相対的な価値の中で測られ、対立を含んでいます。しかし、その差別対立の上に安心立命はありません。

 

厳粛たる善と無礙自由の真

『菜根譚』は明代末期に洪自誠によって著された書物で、内容は儒教・仏教・道教の三教合一である、もしくは、儒教を根底として仏道を兼合していると言われます。日本では処世訓として、特に禅僧に好まれたとも言います。

ここでご紹介した一節で説かれてる思想は、どちらかというと道教の色合いを感じさせます。

 

東洋の二大思潮とも言える儒教と道教の違いについては、安岡正篤の『王陽明研究』でも説かれている「善」と「真」の違いがわかりやすいと感じます。

しばらく手をいれていなかった庭に草が縷々として生えている。何という瑞々しく健やかな、自然の力に溢れた相(すがた)であろう。(中略)ああ草が生えて困るとか、こんなに生えては花に悪かろう。むしらねばならぬとか、この草をとって鶏にやろうとか、そんな一切の意思は動かない。草は何等彼の目的の俎上に供せられた手段ではなく、真に目的それ自身である。

一方で、

彼はみづから花を栽培して、暇があれば雑草をかりとるのであるが、またしてもまたしても何時の間にか花間に草が蔓ってならない。或日も彼は例の通り草むしりをしながら、思わず舌打ちして呟いた。「人間の悪もこの通りだ」。

前者が「真」であり、後者が「善」です。あるいは、前者は「玄徳」的で、後者が「明徳」的と言えます。(参考:「徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳」)

 

善はその厳粛さゆえ、対立を生じます。一方で、真は無礙自由で、安心である。自身の中に美しさを誇る気持ちがあるから、醜さが生じ、自身の中に清さを誇る気持ちがあるから、汚れが生じる。

ただそこに在れれば、それこそが安心立命に繋がると感じます。

 

功過は曖昧にせず、恩怨は明らかにせず

「真」であることは、あらゆるものを曖昧にしていくこととは異なります。現実の問題を処理する上で、はっきりさせなければうまくいかないこともある。

同じく『菜根譚』には、

功過不容少混、混則人懐惰堕之心、恩仇不可太明、明則人起携弐之志、

功過は少しも混ず容(べ)からず、混ずれば則ち人は惰堕(だき)の心を懐かん。恩仇は太(はなは)だ明らかにすべからず、明らかにすれば則ち人は携弐(けいじ)の志を起こさん。

(菜根譚 前集 一三七)

とあります。つまり、功労過失は信賞必罰であり、曖昧にすれば必ず誤る。しかし、恩恵怨仇は忘れて明らかにしないことが肝要である。

 

功労と過失というものを少しも曖昧にしないというのは、まさに言うは易く、行うは難いと感じます。しかし、曖昧にすれば自然と怠る気持ちを生じさせてしまいます。

一方、恩恵と怨仇を明らかにしないということもなかなか難しい。人はつい、感情で対応を変えてしまいます。しかし、恩あるものを優遇し、怨みあるものを冷遇すれば、人は背き離れていく。

 

対立を絶した平等無差別観、絶対境に立つことが修養の目的であり、安心立命の足場であるように感じます。

 

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