ひとたび知らば、忘るる能わず

若一知其姓名、則終身不能復忘、固不如毋知也。且不問之,何損、

もしひとたび姓名を知らば、終身また忘るる能わず。もとより知るなきに如かざるなり。かつ、之を問わざるも何の損ぜん。

(宋名臣言行録  丞相許国呂文穆公  呂蒙正)

宋の政治は二代皇帝太宗が整備を進めた科挙による、文人官僚を核とする機構が特徴とされます。初代太祖の時代にも同様の課題意識がありましたが、群雄割拠の時代から統一された宋において、いかに将軍たちの力を削ぎ、中央に権威を集めるかは重要なテーマでした。

そのための打ち手の1つが「科挙」による人材登用です。呂蒙正は太宗が開始した、皇帝自らが最終試験官となって行う科挙の殿試の最初の首席合格者で、いわば純粋な宋の政治機構のトップバッターに位置する人物です。

 

人の過を記すを喜ばず

呂蒙正は30歳あまりで科挙の進士に合格し、40代の前半には宰相に任ぜられた秀才で、宰相在位の期間は合計で9年間にも及びます。新たな政治基盤を構築したい太宗の期待に応えて出世し、非常に長い期間、政治の最高位を務めるには才覚だけでは足りず、智慧が求められると感じます。

呂蒙正、不喜記人過、初参知政事、入朝堂、有朝士、於簾内、指之曰、是小子亦参政邪、

呂蒙正、人の過(あやまち)を記するを喜ばず。初めて参知政事たりて朝堂に入る。朝士あり、簾内(れんない)より之を指して曰く、「この小子もまた参政なりや」。

(宋名臣言行録  丞相許国呂文穆公  呂蒙正)

若い才能が抜擢されて、周囲は面白くない。当然、周りは呂蒙正の失敗を期待し、足を引っ張って引きずり降ろそうとする者もいる。誹謗中傷もある。その象徴として、初めて参知政事(副宰相)として朝廷に出た際に、簾の中から「あんな男までが副宰相か」という声が聞こえてくる。

 

呂蒙正は聞こえないふりをして、そこを通り過ぎますが、同僚はどうにかして姓名を問い詰めて問い糾したいと思い、朝見が済んだ後も悔やみます。それに対する呂蒙正の言葉が冒頭のものです。

もし一度、名前を知ってしまったら一生忘れることはできない。最初から知らないに越したことはない。問わないでいて何の損があるのか。

言葉というのは恐ろしいもので、たとえ心の中であっても留めれば忘れることはできないと感じます。忘れたつもりでも、どこかに残っている。恨みを生じかねない他人の過ちは記さないということに限る。

 

もちろん時と場合にも依りますが、好ましくない言葉にはなるべく触れないことは大切な智慧であろうと思います。

 

ことにあづからずして心を安くせん

呂蒙正のように政治や権力に巻き込まれずとも、心安く生きるということは難しいものです。

世にしたがへば、心、外の塵にうばはれてまどひやすく、人にまじはれば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。人に戯れ、ものにあらそひ、一度はうらみ、一度はよろこぶ。その事定まれる事なし。

分別みだりにおこりて、得失やむ時なし。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくのごとし。いまだ誠の道を知らずとも、縁をはなれて身を閑(しづか)にし、ことにあづからずして心を安くせんこそ、暫く楽しぶとも言ひつべけれ。

(徒然草  第七十五段)

世間に従えば、心は周囲の塵に惑う。人に交われば、自分の言葉を他人はどう思うだろうかと気になる。争い、恨み、喜んで、心や想いがみだりに起こる。惑いの上に酔ってしまう。

 

吉田兼好の『徒然草』では、縁を離れて身を静かにすることを勧めていますが、現実はなかなかそうもいきません。やはり世間の塵にまみれてしまう。何かを為そうとすれば、なおさらそうですし、そうでなくとも人と交わるだけで心は乱れます。

 

人間というのは単純というのか、複雑というのか、自分を誇りたいという気持ちがあるし、他人の言葉や振る舞いをつい気にしてしまいます。本来は自らの為すことに集中し、楽しめば良いのに、評価を気にしてしまう。

それでは、評価だけを気にしていれば良いかというと、心はそう単純でもない。他人の評価のために振る舞う自分に疑問を感じ、評価のみに生きる自分になりきることもできない。もしそうなら、心を騙さなくてはならない。

 

人と交わりながらも自らの心を乱す言葉は記さないというのは、とてもシンプルな工夫ですが、非常に胆力を要する態度だろうと思います。

他者から学ぶということを尊ぶと同時に、「ことにあづからず、心を安く」ありたいと願います。

 

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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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