智の構造と発達 – 世間智、分別智、無差別智

無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明と見る力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。

だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。

そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。(中略)「みなが違うというのだから、違うのかなあ」というふうである。

(岡潔  「無差別智」より抜粋)

智(知)というと何かを知ること、理解することのように思いますが、知ることと惑わないことは多くの場合で一致しません。「知る」ほどに頑なになる人がいる一方で、「知る」ことをやめても頑なになってしまうように感じる。

それでは「智」とはどういうもので、いかにして養うものなのか。

 

「人づくり」という思い上がり

人の子を育てるのは大自然なのであって、人はその手助けをするにすぎない。「人づくり」などというのは思い上がりもはなはだしいと思う。

(岡潔  「日本的情緒」より抜粋)

岡潔の言葉に「スミレはただスミレのように咲けばよい」というものがありますが、この「ただスミレのように」ということを知るのが、人間の智というものであるように思います。

スミレであることに理由や形式があるわけでなく、「ただスミレのように」である。それを知り尽くすことができる、制御することができるというのは、人間の驕りであるようにも感じます。

 

取り扱っているテーマは一見すると異なるように見えますが、鈴木大拙の説く「自由」、

松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。これを必然性だといい、そうならなくてはならぬのだというのが、普通の人々および科学者などの考え方だろうが、これは、物の有限性、あるいはこれをいわゆる客観的などいう観点から見て、そういうので、その物自体、すなわちその本性なるものから観ると、その自由性は自主的にそうなるので、何も他から牽制を受けることはないのである。

(鈴木大拙  「自由・空・只今」より抜粋)

は近い話のように思います。松が竹にならないのは人間がそう判断するからで、松からいえば、いらぬお世話である。松は人間の規則や原理で生きているのではない。

松だ、竹だと囚われるのは人間の狭い了見で、そんなことをいくら知っていても真の智とは言えません。卑近な例で言えば、徳川家康が運動方程式を知らないからといって、現代の高校生より愚かなどということはない。

 

ただ一方で、知識を軽視することも智とは言えません。しかし、パソコンをうまく使えない年寄りを馬鹿にするのは、人間の智というものがわかっていない。

智とはどういう構造で、それをどういう順序で、どのように発達させていくべきものなのか。いわゆる知識と智はどのような関係で、どういう学びをすれば、惑わずに自由な精神を養えるのか。

 

感覚を自ら持つ – 世間智からの脱却

岡潔は智力に2種類の垢がまつわりついていると言い、私たちを惑わし、大自然なるものとしての人の判断を狂わせる最初のものを「世間智」あるいは「邪智」と呼んでいます。

「世間智」というのは非常にわかりやすい表現で、要するに世間がこれが正しいと言い聞かせてくる智ということだろうと思います。

 

それは特定の宗教でも、科学技術という信仰でも、資本主義という信仰でも、世間のルールでも同様で、「みなが違うというのだから、違うのかなあ」というふうである。

これはいわば他人の自明にすがっている状態で、誰かに認めてほしいという気持ちがあると、これに囚われてしまいます。自分ではなく、「あの人」がいうことが正しいと信じる。

 

多くの人は、この世間智に囚われているように思います。情報が溢れれば溢れるほど、人は他人の「正しさ」に翻弄される。

 

これから脱却するには、自分なりの感覚で物事を捉えるということを忘れないことが大切です。これは好ましい、あちらは気持ち悪いという自分なりの感覚を麻痺させない。

違和感を無視せずに自分なりの感覚を信じるということ、その感覚的な力が、意外にも智力を養う最初の一歩であるといえます。

智の構造イメージ
智の構造イメージ

 

理性の光を持つ – 分別智を磨く

世間智、邪智という垢を落としていこうとすると、自分の感覚を信じるあまりに、その感覚の中に囚われていくということが起きます。感覚に優れた人ほど、こうなりやすい。

宗教家と言ってイメージされるのは、一種、こういう才能に特殊に恵まれた人であるのかもしれませんが、これではやはり真の智とはいえません。

 

そこで、いわゆる「理性」を養うことが必要になります。頭で考え尽くして、「確かさ」の所在を明らかにする。人間は信じることではなく、信じないことによって惑います。

「確かに信じる」ということ、その「確かさ」について確信をすることが理性の役割だろうと思います。

 

数学の属性の第一はいつの時代になっても「確かさ」なのだから、君の出した結果は確かかと聞かれた時、確かなら確か、そうでなければそうでないとはっきり答えられるようにしておいてほしいということである。

(岡潔  「春宵十話」より抜粋)

人間は意外に適当にしか物事を理解していない。だから、信じることができないか、盲信をすることしかできない。そうではなく、その「確かさ」を確信する。あるいは「確かでなさ」を確信するのが理性の力です。

 

人間の理性で考える以上、完璧に正しいということはない。だからこそ、今、主張している内容がどこまで正しいのかを確かに知る必要があります。

そうして初めて、分別がある人間ということが言える。ぎりぎりまで理性を働かせて、「確かさ」の所在、意味合い、限界を知らなければ理性があるとは言えないし、分別があるとも言えないと思います。

 

こころを持つ – 分別智からの脱却と真智

目に見えぬ  神にむかひて恥じざるは  人の心の誠なりけり

(明治天皇御製)

分別を持つとどこまで理性で考えていこうとするが、やはり人間のやることなので、そこには限界がある。「確かさ」はわかっても、「明らかさ」は理性では届かない。

そこで、自ずから明らか、「自明」ということを知るための純粋な直観を磨いていくことになります。老子でいうところの「常の徳を離れず、嬰児に復帰し、天下の式(のり)となる」というのが、その感覚に近いのかもしれません。

 

岡潔は、純粋直観による善き行為について、

フランスのジイドは「無償の行為」ということをいっている。これはこのくにの善行と似ているようだが、大分違う。このくにの善行は「少しも打算、分別の入らない行為」のことであって、無償かどうかをも分別しないのである。

(岡潔  「春宵十話」より抜粋)

と表現しています。

 

東洋では、心は大自然の造化であり、人は道から発した徳を有すると言われます。そして、それは無限であり、理性で解き尽くすことはできませんが、確かにそこにあると感じている。

直観を磨くことを真智と呼ぶのは、自然なる存在として生じた人間の本性を知ろうとする試みであるように思います。

 

春宵十話 (角川ソフィア文庫)
岡 潔
KADOKAWA/角川学芸出版 (2014-05-24)
売り上げランキング: 14,410

瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です