井魚不可以語於海者、拘於虚也、夏蟲不可以語於冰者、篤於時也、 曲士不可以語於道者、束於教也、
井魚は以て海を語るべからずとは、虚(墟)に拘(とら)わるればなり。夏虫は以て冰を語るべからずとは、時に篤(固)ければなり。曲士は以て道を語るべからずとは、教えに束(縛)らるればなり。
(荘子 秋水篇第十七 一)
井戸の魚は自分の狭い住みか(墟)に、夏の虫は暑い季節(時)に、見識の狭い人間は自分が受けた教育(教)に拘われ、縛られている。
縛られるのは仕方のないことですが、自分が何に縛られれているのかを認識することで、日々は少し息がしやすくなるように思います。
人は純粋に物事を見ることはできない
これは世界観の問題ですが、私は世界が自分に完全に認識できるほど単純にできているとは思っておらず、少なくともそれを正確に言葉で表現できるほど、自分の表現力が高いとは思っていません。
それは惑星科学、地球科学という認識し尽くせない程度には複雑な学問を取り扱っていたときにも感じ、また、仕事の中でコンサルタントという立場で他者の仕事に関わる場合にも感じ、日々を生きる中でも感じます。
人の認識について言えば、仮に世界に真実があった場合に、我々はそれを完全には認識できないし、少なくとも個人的にしか認識できない。我々は自分というフィルターを通してしか、世界を解釈することはできません。
また、我々が認識できるのは、意図を持って見た際の反応だけで、純粋な行為を認識することはできない。シミュレーションや実験にせよ、ビジネスの施策にせよ、行為(仮説)による結果を予想し、その結果を観測することで行為(仮説)の妥当性を検証します。
そのために、容易に結果が目的化してしまう。行為自体に目的があっても、結果しか認識できないので結果が目的化してしまう。
そして、受け取ったもの、認識を我々は言葉でしか表現できません。本来、認識は個人的なものであるにも関わらず、表現は他者と認識を共有するために共通化を余儀なくされます。
それが通念と呼ばれるもので、それを集合し、構造化したものとしてイデオロギーが成立します。
世界それ自体は複雑で扱うことが難しいものですが、それを私たちは個人的に認識し、それを言葉にした上で、認識を共有するために共通化、通念化します。
通念が積み重なると誰かがそれを以て1つの世界観を構成します。宗教であったり、資本主義であったり、あらゆる文化と呼ばれるものはそういうものを孕んでいると思います。
イデオロギーに閉じ込められる構造
これによって、私たちは矛盾した構造に取り込まれます。つまり、世界それ自体と、イデオロギーによって描かれた世界の双方を生きることになる。
しかし、人間は矛盾を嫌うもので、認識できない世界よりイデオロギーの方を好む。人はイデオロギーの中で生きていると錯覚します。そうすると、誰かが造り上げたイデオロギーの中に閉じ込められる。
これは魚が井戸の中で生きて海を知らなかったり、夏の虫が暑い季節のみを生きて氷を知らなかったり、人が見識に閉じ込められて生きて道を語れなかったりすることとまったく同じ構造だろうと思います。
誰かに造られたイデオロギーを世界そのものとしてとらえてしまうということは容易に起こります。
この構造の中で、いかに人が世界を感じ続けることができるか、これはとても大切なテーマだと個人的には思っています。同じく『荘子』の「秋水篇」に訓戒として、
聞道百以為莫己若、
道を聞くこと百にして以て己に若くもの莫しと為す。
(荘子 秋水篇第十七 一)
という諺が引かれていますが、誰もが「自らが聞いた百の道」の中で生きている。それは複雑な世界(Multiple)と個人的な認識(Personal)の中間として造られた共通認識(Common)です。
我々はすべからく、井戸の中の魚である。そういう認識がすべての出発点にあると思っています。
ちなみにここでは「井魚」としましたが、一般的には「井蛙(井の中の蛙)」として引かれることが多いようです。
しかし、これはおそらく同じく「秋水篇」の別の寓話の題材で採られている「蛙」が派生したもので、この一節では「魚」が正しいのではないかとされます。この1点を取っても、認識とは興味深いものだと感じます。
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