人皆心あり、心各々執るところあり

忿(いかり)を絶ち、瞋(いかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人皆心あり、心各(おのおの)執るところあり。

彼是とすれば、則ち我は非とし、我是とすれば、則ち彼は非とす。我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず、共に是れ凡夫のみ。

(十七条憲法  第十条)

聖徳太子(厩戸皇子)が制定したとされる「十七条憲法」は、崇峻天皇の弑逆から女性天皇である推古天皇の即位という、政治的混乱の中で定められたものです。和を以て尊しとするその教えは、学ぶところが多いと感じます。

 

仏教の三毒 – 貪、瞋、癡

瞋(いかり)は貪(むさぼり、必要以上のものを求める心)、癡(おろかさ、真理を知らない無知の心)と合わせて、仏教では「三毒」と呼ばれます。『荀子』に「快快として亡ぼすものは怒なり」という言葉がありますが、「いかり」は人間にとって、もっとも根本的な毒の1つである。

 

「忿」はその字の通り、心に関連した「いかり」です。「分」は「賁」の俗字ともされますが、「賁」には内にある力が外に激しくあらわれるという意味があることから、「忿」は心から感情が激しく溢れ、コントロールが利かないといったような状態かもしれません。

とにかく、心穏やかでなく、むやみやたらと攻撃的である。常に対立しようとしてしまう。そういう「いかり」は絶った方が良い。

 

一方、「瞋」はその字の通り、目に関連した「いかり」です。一般に「目を張って怒ること」とされ、「いかり」が外面に出ている状態を指します。「眞」は行き倒れて(首が逆さまになって)死んだ人を指すともされ、強い瞋(いかり)を持つ存在として恐れられます。

あまり恐い顔をしていてはいけない。「いかり」を表に出すと、それはやはり伝染します。人と接するに当たっては、心だけでなく、顔も穏やかでありたい。

 

相共に賢愚なり、是非なんぞ定むべき

人間は不思議なもので、意見を求められると、つい反論をしたくなる。彼が是とすれば、非と言いたくなる。また、自分が分かったと思うと、つい他人を馬鹿にして、冷眼を向けてしまったりする。

しかし、人はみな、賢くもあり愚かでもあり、是非の理を知り尽くすこともできない。どんなに智慧があろうとも、人心を知らなくては何にもならない。

 

是非の理、詎(なん)ぞ能く定むべき。相共に賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきが如し。

是を以て、彼の人瞋ると雖も、還って我が失(あやまち)を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従って同じく挙(おこな)え。

(十七条憲法  第十条)

相手が腹を立てて、怒っているときも、それに対抗しようとしてはいけない。一緒になって怒っては、何にもならない。むしろ、翻って自らを省みる機会とすべきである。

この考え方は、武術の理合にも通じるものがあると感じます。「武」とは相手を倒すことではなく、戈を止めることでありたいと思います。

 

また、自分が本当に事理に通じていたとしても、必ず人の意見は聞くべきである。現代は自己を主張することがよしとされ、自身の主張を述べたことを以て満足をしてしまう向きがあるように感じます。

真に自己を主張することは、真に他者を尊重することでありたい。人はそれぞれに観ている世界が違うからこそ、この世界を共にどう観ることができるかということが大切な問題だろうと思います。

 

十七条憲法は政争の混乱の中で定められたという背景から、やや「和」に過ぎるのかもしれませんが、「人にはそれぞれ心がある」という教えは変らない真理だろうと思います。

 

聖徳太子と憲法十七条
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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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