志の難きは自ら勝つに在り

知之難、不在見人、在自見、故曰、自見之謂明、
志之難、不在勝人、在自勝、故曰、自勝之謂強、

知の難きは人を見るに在らず、自ら見るに在り。故に曰く、自ら見るをこれ明と謂う。志の難きは人に勝つに在らず、自ら勝つに在り。故に曰く、自ら勝つをこれ強と謂う。

(韓非子  喩老第二十一  十三)

『韓非子』には、解老(老子を解す)・喩老(老子に喩う)という2篇があります。当然ながら、韓非子自身との関係は疑われますが、天道を人間社会における規律として明文化していくのが「法」と捉えると、2つの思想が干渉し合うことは自然だとも感じます。

 

百歩の外を見るもまつげを見ること能わず

「知の難き」については、春秋の五覇の1人、楚の荘王の逸話が採られています。楚の荘王は、南方の大国である楚の歴史の中でずば抜けた名君です。その荘王が、隣国の越を伐ちたいという。

楚の荘王、越を伐たんと欲す。杜子、諫めて曰く、王の越を伐つは何ぞやと。曰く、政乱れ、兵弱しと。

荘王の意向に対して、臣下の杜子が諫めて「どうして越を伐とうとするのか」と問います。荘王は「越は政治が乱れ、兵も弱いからである」と答える。それに対して、杜子は次のように説く。

臣愚、智の目の如きを患うるなり。能く百歩の外を見るも、自ら其の睫(まつげ)を見ること能わず。

「智」ということは、「目」のようである。目は百歩も離れた遠いものも見られるが、自分のまつげを見ることはできない。そういう観点で考えると、今の楚も政治は乱れ、兵は弱い。越よりましであるということもない。

 

知るということの難しさは、他人を見抜くことではなく、自らで自らを見抜くことである。それが『老子』にいう、

知人者智、自知者明、

人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり。

(老子  上編  第三十三章)

ということであると。

 

両者胸中に戦えば、勝負知らず

「志の難き」については、孔子門下の子家と曾子の対話が引かれます。子家が曾子に会うと、ふくよかに太っている。そこで、子家は「どうして太ったのですか?」と訊ねる。ここでいう「太った」とは、安心の境地であることを示しています。

子家の質問に対して、曾子は次のように答える。

吾入りて先王の義を見れば、則ち之を栄とし、出でて富貴の楽しみを見れば、また之を栄とす。両者胸中に戦い、未だ勝負を知らず、故に臞(や)せたり。今や先王の義勝つ、故に肥えたりと。

家にいて聖王の道義を学んでいると、それに憧れる。外に出て富貴の楽しみを見ると、それにも憧れる。両者が胸の中で戦っていたので落ち着かず、痩せていたが、今は聖王の道義が勝ち、落ち着いた。それで太ったのだと。

 

志を貫くことの難しさは、他人がそれを妨げるから、他人に勝てないからではない。ただ、自らが自らに勝つことが難しい。それが『老子』にいう、

勝人者有力、自勝者強、

人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強なり。

(老子  上編  第三十三章)

さらに、

知足者富、強行者有志、

足るを知る者は富めり。強(つと)めて行う者は志有り。

(老子  上編  第三十三章)

ということであると。

 

人は意外なほどに、たやすく惑う。強めて行う、惑わずにあるということこそ、志の要諦である。だからこそ、「不惑」ということが尊しとされる。非常にシンプルな寓話ですが、大いに真理を突いていると感じます。

 

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