無限への憧憬 – 探求するということ

知人に教えていただいた、鈴木大拙の晩年、93歳のときのインタビュー映像です。鈴木大拙はこの映像の中で、「無限に関心を持つことが宗教」と答えていますが、1つの捉え方として非常にわかりやすく、興味深い考え方です。

 

裏にある無限性が有限への不満を生む

そもそも無限への関心がどこからくるのか。人は有限の時間を生きており、認識できる世界もまた有限です。科学が世界を徹底して分析しようとしても、その網の目は無限にはならない。人間のやることだから、何かで限られている。

そうやって有限を生きる人間は、その有限性に不満を感じる。その不満がなぜ生じるかというと、その裏に無限があるからだと鈴木大拙は言います。

 

人間は、認識を超えた部分、認識の裏にある無限に気づいている。そもそも、有限ということを感じるのは、無限という存在を認めている証拠である。

認識・知性の産物である科学・技術は社会を大いに発展させ、その力を活かすことが重要であることは論を俟ちません。しかし、その裏にある無限に対するあこがれ、憧憬(どうけい)、憧憬(しょうけい)を欠くことは現代の弊でもあります。

 

許慎の『説文解字』には、「憧」の説明として「意定まらざるなり」とあり、「憧」には心が不安定でぼんやりしているという意があるとされます。「憧れる」ということは、ある意味でとても不安なことです。

網の目にかからない、認識できないものの中に真実があると言われても、どうしても信じがたいし、それを追求することは苦しい。しかし、その不安を抱えて、その不安に関心を持ち続けること。それが人生を探求するということであり、つまりは宗教なのだろうと思います。

 

知る能わざるところに止まれば至る

意識的、または無意識的に無限を感じているからこそ、有限に不満足を感じる。しかし、人間の認識はやはり有限性に縛られていて、その中で生きるしかない。にも関わらず、不満足から解放される術は有限の認識の中にはない。だからこそ無限への憧れが必要です。

こういったことは、鈴木大拙も言うように「わかったようでわからん」。しかし、「わかったようでわからんというところに、何かわかったことがないとそうは言えない」とも言っています。

 

こういった態度は、『荘子』の雑篇にある一節とも通じるところがあります。

学者、学其所不能学也、行者、行其所不能行也、弁者、弁其所不能弁也、知止乎其所不能知、至矣、若有不即是者、天鈞敗之、

学ぶ者は、其の学ぶ能わざるところを学ぶ。行う者は、其の行う能わざるところを行う。弁ずる者は、其の弁ずる能わざるところを弁ず。知は其の知る能わざるところに止まれば、至れり。若し是れに即(つ)かざる者あらば、天鈞これを敗らん。

(荘子  庚桑楚篇第二十三  三)

学ぶということ、行うということ、弁ずるということは、本来は学ぶことができないこと、行うことができないこと、弁ずることができないことをやろうとすることである。

知というものは、知ることができないところに止まることで至ることができる。それが最高の知である。そこから離れてしまえば、天鈞、すなわち自然の調和性によって打ち壊されてしまうであろうと。

 

もちろん、これも「わかったようでわからん」話です。しかし、答えのない問いを、答えがないと知りながら問い続けること。知性を限界まで試しながら、有限の世界に生きながら、無限への憧憬を持ち続ける。『老子』の冒頭にある、「道とすべきは常の道にあらず」というのも近しい感覚だと思います。

それが探求であり、そこに今が生じる。そして、そこに生きるということがあり、楽しさもあると感じます。

 

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