自由とは何か – 東洋的「自由」の意味

元来自由という文字は東洋思想の特産物で西洋的考え方にはないのである。あってもそれはむしろ偶然性をもっているといってよい。それを西洋思想の潮のごとく輸入せられたとき、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、そのころの学者たちは、いろいろと古典をさがした末、仏教の語である自由を持って来て、それにあてはめた。

それが源(もと)となって、今では自由をフリーダムやリバティに該当するものときめてしまった。

(鈴木大拙  「自由・空・只今」より抜粋)

近代における代表的な仏教者といわれる鈴木大拙は、25年に及ぶ海外での活動、アメリカ人女性との結婚を通じて、東洋と西洋を真に体得した稀有な人だと思います。

鈴木大拙の「自由」に関する論もまた、異なる思想空間を自由に行き来する鈴木大拙だからこそ説くことができる世界観だと感じます。

 

自由は「不自由」に対するものではない

鈴木大拙だけでなく、安岡正篤も同様の論を展開していますが、西洋思想はいわゆる二元性を基底に持つ。二元性とは「分ける」ことであり、この分割は知性の性格です。

なぜ「分ける」ことが知性の性格かというと、知識は分けなくては成立しない。主と客を分けなくては、知ることができない。「理」に「ことわり」という訓を付けた日本人の感性はとても優れていたと感じます。

 

西洋思想が二元性を基底に持つということはつまり、西洋思想は知性を重視する。ただし、分けると必ず、対立・争いが生じます。そこに力の世界が開け、制するか制せられるかの世界となる。

そこで西洋では、山に登ることを「山を征服」するという。大海原を征服し、大空を征服し、宇宙空間を征服する。また、具体的な事柄を相対化・一般化・概念化・抽象化し、機械化・標準化することも西洋思想の得意とするところです。

 

西洋思想は分割し、相対化し、一般化し、標準化する。そういう性質を踏まえると、

西洋のリバティやフリーダムには、自由の義はなくて、消極性をもった束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性をもっていて、東洋的の自由の義と大いに相違する。

(鈴木大拙  「自由・空・只今」より抜粋)

となる。

 

自由は「身ずから」、「己ずから」ある

では、東洋における「自由」とは何か。鈴木大拙はそれについて、

自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら(みずから)」または「自ら(おのずから)」出てくるので、他から手の出しようのないとの義である。

自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他から何らの指図もなく、制裁もなく、自ら(おのずから)出るままの働き、これを自由というのである。

(鈴木大拙  「自由・空・只今」より抜粋)

と説いています。日本語の「みずから」は古語では「身づから」であり、「おのずから」は「己づから」です。つまり、我が身から出るもの、我が身に在るものに由ることが「自由」であり、そこに対立はない。

 

自分が自分であることは、他者から縛られて在るのではない。松が松であることは、松が竹でないこと、そういう人間の判断とは関係のない話である。

東洋の自由は、「はじめから縛られていないのだから、それから離れるとか、脱するなどということはない」。よく混同される自由と放逸は、そういう意味においてはまったく逆の意味であり、抑圧により自制を失った放逸はむしろ、自由ではなく奴隷性の象徴です。

 

一方で煩悩(ぼんのう、あるいは、はんのう)、不自由があるから人間であり、木石では人間ではありません。安岡正篤は、「西洋の絵画は裸婦にはじまり、裸婦に終わる。東洋の絵画は石にはじまり、石に終わる」と言っていますが、石に憧れながらも、やはり人間は人間だから良い。

そこで、「阿弥陀さまよ、どうぞ自分の煩悩を皆、とってくださるな、これがないと、あなたのありがたさが、わかりませぬ」ともなる。この妙味こそ、生きることの面白さだと感じます。

 

機心存すれば、純白備わらず

東洋においても、孔孟の儒学は現実・実用、いわゆる「明徳」を大切にし、「玄徳」を説く老荘の方がより自由性に重きをおきます。『荘子』には、孔子や孔子の弟子たちが功利主義の代表者として登場し、彼らと対比する形で自由が説かれる寓話が豊富にあります。

 

鈴木大拙も「創造の自由 – 『荘子』の一節」という作品にて、『荘子』の以下の寓話を採っています。

子貢、南のかた楚に遊び、晋に反らんとして漢陰を過ぎ、一丈人のまさに圃畦をつくるを見る。隧をうがちて井(いど)に入り、甕を抱きて出でて灌(そそ)ぐ。榾榾然として用力の甚だ多きも、而も功を見ること寡なし。

子貢曰く、ここに械あり。一日に百畦を浸(ひた)す。用力甚だ寡なくして、而も功を見ること多し。夫子、欲せざるかと。圃をつくる者、仰ぎてこれを見て曰く、奈何と。

曰く、木をうがちて機をつくり、後は重くして前は軽く、水をあぐること抽(なが)るるが若く、数(はや)きことは泆湯(いつとう)の如し。其の名を槔(こう、はねつるべ)と為すと。

孔子の弟子の子貢が、南の楚の国を旅し、帰りに漢水の南を歩いていたとき、1人の老人が畑つくりをしているところに出くわす。老人は甕を持って井戸にもぐっては水を汲み出し、畑に注いでいるが、骨ばかり折れて、一向に効果は小さい。

そこで子貢が話しかけて、「1日に百畝もの畑に水をかけられる装置があります。ちょっとした骨折りで効果は大きいのですが、いかがですか」と言う。老人も子貢を見て、「それはどんなものだい?」と聞く。子貢は、その装置の仕組みを説明し、「槔(はねつるべ)と呼ばれる機械です」と教えます。

 

そうやって提案をする子貢に対して、老人は次のように応える。

圃をつくる者、忿然として色をなすも、而も笑いて曰く、吾れこれを吾が師より聞けり。機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。機心、胸中に存すれば、則ち純白備わらず。

純白備わらざれば、則ち神性定まらず。神性定まらざる者は、道の載せざるところなり。吾れは知らざるに非ざるも、羞じて為さざるなりと。

(荘子  天地篇第十二  十一)

老人はむっとして顔色を変えるが、笑いながら言います。「からくりを用いる者は、必ずからくり事を行う。からくり事を行う者は、必ずからくり心を持つ。それでは、純真潔白さは失われてしまう」。

そうすれば、結局、精神や本性が乱れてしまい、道に載せてもらうことはできない。そこで、「私はその機械を知らないわけではないが、道に対して羞じて使わないのだよ」と。

 

人は機械を使うと同時に、機械に使われます。そして、機械を使うと、どうしてもより効率的な方法を求めるようになる。それは機械化・標準化の効用ではあるが、一方で物事を分裂させて、神性・自由を失わせる。

真の自由は、そういったところとは独立して存在する絶対的な個であるというのが、鈴木大拙の捉え方だと思います。決して簡単であるとは思いませんが、1つの感性として、とても重要だと感じます。

 

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