守拙 – 拙を以て進み、拙を以て成る

文以拙進、道以拙成、一拙字有無限意味、

文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。拙の一字、無限の意味あり。

(菜根譚  後集  九十三)

「拙」は「功ならざるなり」、つまり不器用の意とされますが、器用を以て生きないことは東洋では尊しとされます。守拙、拙修、拙誠、養拙などは高尚な生活態度を象徴する語であり、芸術の分野においても重要な理念の1つとされます。

 

大功は拙なるが如し

中国思想の源流の1つである『老子』には、

大功如拙、

大功は拙なるが如し。

(老子  下編  第四十五章)

とあります。また、東洋最高の兵法書ともいわれる『孫子』にも、「兵は拙速を聞くも、未だ功久を賭(み)ざる」という有名な一節があり、前漢の劉向が著した『説苑』には「功偽は拙誠に如かず」という言葉が見えます。

 

これらの思想は、別に「功」であること自体を否定しているわけではありません。ただ、「功」は妬みや怨みを生じやすく、また、久しいことを求めやすく、偽に陥りやすい。

人間は、巧くやる人間に対してはどうしても警戒をしたり、粗を探そうとする。また、巧くやっている間は、なかなかそれを止められないし、知能が高ければさぼったり、自らを利する心が生じやすい。

 

そこで「大功は拙なるが如し」。『孫子』にも「勝を見ること衆人の知る所に過ぎざるは、善の善なる者に非ざるなり」とありますが、たとえどんなに「功」でも、他人から知られてしまえば、その内に巧くいかなくなる。

他人からは拙く、愚かに見えて、功いと思われないくらいでないと本当に巧いということにはならない。これは決して、老子流の逆説ではなく、真理を含んだ教えだと感じます。

 

十より帰る  もとのその一 – 利休の稽古観

茶道を1つの完成へと導き、茶聖とも称される千利休は、稽古の何たるかを簡潔な道歌で教えています。

稽古とは  一より習ひ十を知り  十より帰る  もとのその一

(千利休)

芸事だけでなく、あらゆる修養における、まさに「守拙」の真髄を感じる歌です。

 

「稽古」とは元々、「古きを稽(かんが)え、稽(とど)まり、稽(いた)る」ということで、過去の智慧に学び、道に至ることを意味します。その過程では当然、まずは「一から習って、十を知る」。

普通はそこで満足する。十を知れば、いろいろなことが巧くできるようになるし、人に教えることもできる。しかし、道に至るには、その十から帰って、一を知る。最初の一に帰ったところに道がある。

 

人間は発達すると分化しやすい。枝葉末節に捉われるようになります。発達は『易経』では「陽」の作用とされますが、「陽」だけでは駄目で、発達する力を統合していく「陰」の作用があって、初めて万物が生じる。

「一より習ひ十を知って、その十から一に帰る」。この作用の繰り返しは、陰陽相対(相待)の思想とも通じるところがあると感じます。それであって初めて、世界として完成する。

 

またはシンプルに、「初心忘るるべからず」と言っても良いのかもしれません。いずれにしても、守拙、拙修、拙誠、養拙という言葉は、東洋的な修養の道を伝える、とても良い言葉だと感じます。

 

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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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