三世因果 – 影の形に随ふが如し

善悪之報、如影随形、三世因果、循環不失、

善悪の報、影の形に随ふが如し。三世の因果、循環して失はず。

(涅槃経  憍陳如品)

『涅槃経』には、死期を迎えた釈迦(仏陀)の最後の旅から入滅に至るまでの言行と、その後の火葬・遺骨分配の様子が記されています。『涅槃経』は悟りを得た釈迦の、ある意味ではもっとも成熟した教えを垣間みることができる書と言えるかもしれません。

 

因果と影法師は付いて離れず

善悪の応報は、影がぴったりと形に随うのと同様で、過去・現在・未来の三世を通じて、因縁と果報は循環して決して消えることがない。これは仏教の基本的な考え方の1つです。

 

『法華経』の「方便品」にも、有名な以下の一節があります。

如是因、如是縁、如是果、如是報、

是くの如き因、是くの如き縁、是くの如き果、是くの如き報。

因果と影法師は、いずれも付いて離れない。善いことをすれば善い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがあるという、いわゆる「因果応報」は、シンプルでありながら真理として、様々な書で説かれます。

 

老来の疾病は、壮時に招きしもの

仏教、特に禅の影響が見られる東洋の処世哲学の傑作、『菜根譚』には、

老来疾病、都是壮時招的、衰後罪糵、都是盛時作的、故持盈履満、君子尤兢兢焉、

老来の疾病は、都(すべ)て是れ壮時に招きしものなり。衰後の罪糵(ざいげつ)は、都て是れ盛時に作(な)せしものなり。故に盈を持し満を履むは、君子尤(もっと)も兢兢(きょうきょう)たり。

老年になる病気は、若い頃の行いが招いたものであり、運が衰えた時に訪れる禍(わざわい)は、盛運のときの行いによるものである。そこで、君子は満ち足りているときにこそ、非常に恐れ慎むものであると教えています。

 

これを学問の道としていうと、例えば、佐藤一斎の「三学戒」となり、養生の道でいうと貝原益軒の、

古語に曰く、「莫大の禍(わざわい)は、須臾の忍ばざるに起る」。須臾とはしばしの間を云う。大なる禍は、しばしの間、欲をこらえざるよりおこる。酒食・色慾など、しばしの間、少しの慾をこらえずして大病となり、一生の災いとなる。

一盃の酒、半椀の食をこらえずして、病となる事あり。慾をほしいままにすること、少しなれども、やぶらるることは大なり。(中略)小なる過ちより大なるわざわいとなるは、病のならい也。慎しまざるべけんや。

(貝原益軒  養生訓  巻第一)

となります。また、人の生死でいうと、「憂患に生き、安楽に死す」となるのかもしれません。

 

三世因果、因果応報に科学的な裏付けがあるわけではないのかもしれませんが、これは東洋の智慧であり、個人的には真実だろうと感じます。

 

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