学の四失 – 多・寡・易・止

学者有四失、教者必知之、人之学也、或失則多、或失則寡、或失則易、或失則止、

学ぶ者に四失あり。教ふる者、必ずこれを知る。人の学ぶや、或いは多きに失なひ、或いは少なきに失なひ、或いは易きに失なひ、或いは止まるに失なふ。

(礼記  学記第十八)

古来、学の在り方について述べた言葉は無限にありますが、『礼記』の「学記篇」もその1つであり、学ぶということに対する古代中国の人々の智慧をよく教えてくれます。

 

そもそも、なぜ学ぶのか

「四失」を詳しく見る前に、東洋(特に儒学)において、「学」の目的・役割が何であるのか。端的に言うと、なぜ人は学ぶべきかという点を少し考えておきたいと思います。

 

以前にもご紹介したように、「学」という字は元々は「學」と書かれ、千木(交叉した木)のある屋根の左右に臼(左右の手の形、教え導くの意)を配した形を上部に配し、その下部に「子」が加えられた形、つまり子弟教導の学舎の形です。(参考:学びて習う – 学習の本義

日本語の「学ぶ(まなぶ、まねぶ)」という言葉は「真似」と同根で、過去を手本として、身を修めることが「学」であり、儒学的には理想の君子政治を実現するために先王の道を学ぶことと関連づけられます。

 

学問の本質については、中江藤樹の『翁問答』にある、

それ学問は心の汚れを清め、身の行ひを良くするを以て本実とす。

(中江藤樹  翁問答)

という定義がとても分かりやすいと感じます。過去を学ぶことで自らを省み、また、英霊の志・行蔵に感じて、少しでもそういった素晴らしい人格に近づくことが、人が学ぶべき理由だと思います。

 

四失を招く心を知り、善を長け失を救う

さて、その学問を行う上で、失を招くとされる4つが多・寡・易・止です。つまり、

  • 【多】あまりに多くのことを学び、知識ばかりに翻弄され、身に付かない/精通しない
  • 【寡】目標ばかり高く、地道なひとつひとつの学びをおろそかにする
  • 【易】学ぶ対象を軽く見て、自己の才能に頼りすぎる
  • 【止】学問の難しさに怯み、自己の才能が及ばないと考え、学ぶことをやめてしまう

眼前の知識に捉われすぎても、遠い理想を追いすぎてもいけず、学問に対して侮りの気持ちを持っても、怯む気持ちを持ってもいけない。程よく、確実に学びを進めていかなくては、学の道は成らない。

 

『礼記』では、

此四者心之莫同也、知其心、然後能救其失也、教也者長善而教其失者也、

この四者は心の同じきことなきなり。その心を知りて、しかる後に能くその失を救ふなり。教へなるものは善を長(たす)けて、その失を救ふものなり。

(礼記  学記第十八)

この4つの失はそれぞれ異なる心からくるものであるから、1つ1つの心を知って、その失を救う必要があり、それこそが教育の役目であるとしています。

ただ知識を授ける人を教育者とは呼ばない。教育者とは善を長(たす)けて、失を救う人である。教育という事業に携わるとき、基本とすべき教えだと感じます。

 

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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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