あはれといふもおろかなり – 白骨の御勧章

野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふも、なかなかおろかなり。

(蓮如上人  御文  「白骨」より抜粋)

浄土真宗本願寺八世の蓮如上人が、布教の一貫で全国の門徒へ手紙として発信した法語が「御文」です。宗派によって「御文章」(本願寺派)、「御文」(大谷派)、「御勧章」(興正派)と呼び名は異なりますが、中でも「白骨」の法語は特に有名とされます。

 

念仏して地獄におちるとも後悔すべからず

これまで、あまり葬儀というものと縁がなかったのですが、今年は立続きに参列させていただき、通夜・葬儀の最後に詠まれた「白骨の御勧章」に感じるところがありました。

浄土真宗は「他力本願」とされます。解釈は様々かと思いますが、私は「悟りに至れない自己に対する徹底的な諦観に立ち、一心に念仏を唱えることによって弥陀の救いを得る」道であると考えています。

 

民衆にとって、欲心を去ることはあまりにも難しく、悟りはあまりにも遠い。それでも救われたい。そうであれば、悟りに至れない自己を認識し、一心・無心に念仏を唱えるしかない。そうすれば、仏によって救われる。

『歎異抄』には、親鸞が法然上人の教えに接したときの描写として、

親鸞におきてはただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よきひとの仰せを蒙りて信ずる外(ほか)に別の仔細無きなり。(中略)

たとえ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄におちたりとも、更に後悔すべからず候。その故は自余の業をはげみても仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候わばこそすかされたてまつりてと云う後悔も候わめ、いずれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし。

(『歎異抄』より抜粋)

とあります。行に励んでも仏になれるような我が身ではない。「ただ念仏を唱えよ」という法然上人の教えにだまされているとしても、どうしようもないのだから、念仏を唱えて地獄に堕ちても後悔などありえない。地獄が私の住処ということでしょう。

 

宮本武蔵は「神仏を尊み、神仏を頼まず」という言葉を遺していますが、愚禿と号した親鸞の覚悟も本質的には同じなのだと思います。

 

我や先、人や先、今日とも明日とも知らず

さて、「白骨の御勧章」に戻ります。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期なり。

されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。

されば、朝には紅顔(こうがん)ありて夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふも、なかなかおろかなり。されば、人間の儚きことは、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。

(蓮如上人  御文  「白骨」)

一生は過ぎやすく、誰も100年の寿命すら保つことは難しい。我が先か、人が先か、今日か明日かも分からぬ身である。朝には血色良くあっても夕には白骨となる身である。死ねば家族親戚集まって、嘆き悲しむが、どうすることもできない。

そのままにもできないので、火葬をして送るが、ただ白骨が残るだけ。あわれと言っても、どうも言い切れない。人の一生は儚い。阿弥陀仏を深く頼み、念仏を申すべきである。

 

無常を感ずる、味識すべき文章です。

 

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