小人は財に殉じ、君子は名に殉ず

小人殉財、君子殉名、其所以変其情、易其性、則異矣、乃至於棄其所為、而殉其所不為、則一也、

小人は財に殉じ、君子は名に殉ず。其れ其の情を変じて其の性を易(か)うる所以(ゆえん)は則ち異なれり。

乃(され)ど其の為すべきを棄てて、其の為さざるべきに殉じるに至りては、則ち一なり。

(荘子  盗跖篇第二十九  二)

『荘子』の「盗跖篇」には孔子と盗跖(大泥棒)、子張(孔子の弟子)と満苟得、無足と知和の3つの対話が収められており、ここでご紹介した一節は子張と満苟得との対話の中に登場するものです。

 

寓意に満ちた『荘子』

『老子』と『荘子』はまとめて「老荘」と呼ばれますが、荘周自身の著作とされる「内篇」については『老子』とのつながりはなく、後世の偽作といわれる「外篇」、「雑篇」に『老子』の思想、さらには儒学的な思想も含まれるとされます。

 

固有名詞が一切登場しない『老子』に対して、『荘子』の中には実在の人物がたびたび登場します。なかでも孔子とその弟子が多く登場しますが、それらはもちろん、寓話の理解を助けるための象徴です。

 

「盗跖篇」においても、孔子やその弟子の子張は道義的な儒家の立場の象徴であり、盗跖や満苟得(かりそめでも得て、それに満足する者)、無足(足ることの知らない貪欲なる者)は欲望のまま利を欲する立場の象徴です。

それに対して、満苟得の話に挙がる無約(拘束されない自由)、知和(和を知る者、中庸)が理想として描かれる。この現実と虚構を織り交ぜた多面的・多層的な寓話が『荘子』の魅力でもあります。

 

為さざるべきに殉ずるに至りて一

満苟得は欲望のまま、なりふり構わず振る舞う。「小盗は拘われ、大盗は諸侯となる」、つまり、「こそ泥は捕まるが、もっとも多くの人を殺し、土地と人民を奪う大泥棒が諸侯となる」と主張し、成功こそが正義と主張する。

一方、子張は満苟得に対して義の重要性を説きます。「桀紂は天子でありながら、卑僕にも蔑まれる。行いを正さなければ、まともな社会生活は営めない」と。両者の主張は立場が異なり、相容れることがない。

 

そこで満苟得が無約に相談する。その際に言われた言葉が冒頭の一節です。つまり、小人は財や利のために身を亡ぼし、君子は名や義のために身を亡ぼす。

それぞれ主張は異なるが、天理を見失い、本性を見失って為すべきでないことをし、身を亡ぼすことになる。その点においては同一であるというのが無約の主張です。

 

そこで、

无為小人、反殉而天、无為君子、従天之理、若枉若直、相而天極、面観四方、與時消息、

小人と為るなかれ、反って而(なんじ)の天に殉え。君子と為るなかれ、天の理に従え。若しくは枉、若しくは直、而(なんじ)の天極を見よ。四方を面観し、時と消息せよ。

利に動かされることなく、自身の天性を自覚し、それに殉じるべきである。義に縛られることなく、天理・自然に従うべきである。ときには曲がり、ときにはまっすぐとなって天極を見、四方をひろく見渡して自然の時に合わせて移ろい変化しなくてはならない。

天の極」は『老子』にも登場する概念です。

 

本性の自覚が起点

孔孟(儒学)と老荘は対照的な思想と捉えられがちですが、立場が異なるだけで、求めているものは同じだと思っています。つまり、いかに自己の本性を自覚し、それに従って生きるか。

 

孔孟は現実的・社会的であるがゆえ「明徳」を主張し、老荘は理想的・自然的であるがゆえ「玄徳」を主張します。(参考:徳とは何か – 玄徳、明徳、陰徳

ただ、本性に従ってこそ活力を持って生きることができ、本性を自覚してこそ矛盾に富んだ世界を楽しむことができる。この主張は共通であり、その点においては「一」です。

 

『荘子』の寓話は理解が及ばないと感じることも多いですが、そのユーモアと解釈の余地、思考にもたらす刺激など魅力に満ちています。

 

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瑞月
四国の香川県出身。細々としか続けておりませんが、合気道と剣術を少々しております。漢学教室で学習した内容の発信も行っています。

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