事上磨錬 – 事に当たって修養する

人須在事上磨錬、做功夫、乃有益、

人は須く事上に在って磨錬し、功夫をなす、すなわち益あり。

(伝習録  下)

『伝習録』は陽明学の祖である王陽明の言行を記録した書物です。「事上磨錬」は、現実に即した修養を旨とする王陽明の思想が端的に現れた言葉だと感じます。

 

事に当たりつつ意志を鍛錬する

いわゆる「陽明の五溺」(王陽明が陽明学に到達するまでに迷い、耽溺した思想や取り組み)にも神仙(老荘)や仏教が数えられますが、修養というと静座黙考し、思索を深めて真理に到達する、俗世から解き放たれた特殊なものであると捉えられることがあります。

 

しかし、結局のところ我々は日々を生きており、学問の目的は日々の生活を高めていくことでなければなりません。科学が道具を発達させて日々の生活を便利にしていくように、哲学は人格を磨き日々の生活を高めていくものでなければなりません。

 

それが「事上磨錬」。つまり、須(すべから)く事に当たりながら意志を鍛錬し、功夫(くふう)をする。そうすれば効果が上がる。実行力を伴い、それが日々の生活を新たにしていく。そこにこそ、我々が哲学を学び、修養をする意義があるのだと思います。

哲学・思想が空理空論、科学に比べて役に立たない、胡散くさいものであると捉えられているのは非常に残念だと感じます。

 

ただ静を好めば、事にあって乱れる

修養はあくまで、人格を高めてより良く日常を生きる、具体的にはよく仕事を処理し、自らの生活を高めていく。また、他人に貢献する、世のため人のために少しでも役に立つことが目的です。ただ静を好み、自分は道に達したなどというのは、現実に即した修養とは言えない。

 

それについて王陽明は、

若只好静、遇事便乱、終無長進、那静時功夫亦差、似収斂而實放溺也、

もし只だ静を好まば、事に遇ひて便(すなち)ち乱れ、終に長進なく、かの静時の功夫(くふう)もまた差(たが)わん。収斂に似て実は放溺なり。

つまり、事にあって乱れるような、ただ静を好む修養では大きな進歩はなく、静座して行った思索・工夫は実践では同じようにはいかない。そこで、「収斂に似て、実は放溺なり」。

静時の修養、机上の空理空論は「収斂に似て、実は放溺」、心を落ち着け引き締めるように見えるが、実は反対に心を放漫にし、堕落させるものであるというのは、学問を志す者だけでなく、広く一般に見ても非常に心に響く教えだと感じます。

 

思想学問だけでなく、科学であっても、またビジネスであっても、「静時の修養」に堕落してしまうことはしばしばあると感じます。実践・実行の中で工夫することが真の修養であり、また、真の仕事であると感じます。

 

修養は本体を離れてはならない

そもそも、科学と哲学を分ける、仕事と趣味を分ける、人格内面の修養と外面的な錬磨と分けるというのは、あまり本質的ではないと感じます。

私は学生時代は地球惑星科学を学んでいましたが、過去の偉大な研究者として、随筆家・俳人としても有名な寺田寅彦や『Newton』の初代編集長である竹内均がおり、先人の知識の広さ・深さに感動し、また、そうありたいと思いました。

 

物事には当然、内外があります。ただ、内外は合わせて修養すべきもので、内外を分けて修養を考えるというのはまったく本質的ではありません。

功夫不離本体、本体原無内外、只為後来做功夫的分了内外、失其本体了、

功夫(くふう)は本体を離れず。本体は原(もと)内外無し。只だ後来(こうらい)功夫をなすものの内外を了(わか)てるが為に、その本体を失えり。

我々の本体を離れて工夫も修養もない。むろん、思索が得意な人間もあれば、実行が得意な人間もあり、強みは活かすべきです。ただ、修養としてはどちらか一方では駄目で、あくまで本体を失わないようにしなければならないと感じます。

 

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