思則得之 – 思えば則ち之を得る

耳目之官、不思而蔽於物、物交物則引之而已矣、心之官則思、思則得之、不思則不得也、

耳目の官は思わずして物に蔽(おお)わる。物、物に交われば、之を引きゆくのみ。心の官は則ち思う。思えば則ち之を得る。思わざれば則ち得ず。

(孟子  告子上  十五)

孟子の「性善説」によれば、人はひとしく善なる本性を持っている。それにも関わらず、大人・小人の区別ができるのはなぜかという弟子の問いに対する孟子の言葉です。

 

脳はほとんどの情報を受容しない

耳や目といった感覚器官は、人間にとってはセンサーです。それらは絶えず、外界の刺激に晒されており、これらの感覚器官が何かに交われば、とにかく引かれて情報をキャッチします。

一方で、心(もしくは脳)は思う器官であり(参考:「おもう」 – 思、想、惟、憶、慮、念)、情報をどう処理すべきかを考え、判断する。

 

脳科学を専攻した友人の話では、人間の感覚器官は1秒間に200万ビット相当の情報を受け取っているが、それらの情報は小脳のRAS(Reticular Activating System、網様賦活系)という器官でフィルタリングされ、実際に脳が受容するのは全情報の1000分の1程度だそうです。

では、どのような情報を受容するのか。それは大きく3つに分類され、生存に必要な情報、自身がコミットメントしている情報、自らの安定したパターンを崩す情報の3種類だそうです。

 

つまり、人は自らの世界観において情報を受容し、処理している。その世界観に応じて情報は循環するため、発展する人はどんどん発展し、逆に思考が閉じている人はその閉じた世界に閉じ込められてしまう。

この世界観をどう持つか、『孟子』の言葉でいうと「気の帥たる志」を持てるか否かが大人・小人の分岐点だろうと思います。

 

感覚に従う小人、思いに従う大人

『孟子』ではもう少し端的に、大人・小人の違いが述べられています。

比天之所與我者、先立乎其大者、則其小者不能奪也、之為大人已矣、

比(みな)天の我にあたえるところのものなるも、先ずその大なるものを立(おも)んずれば、その小なるものも奪うこと能わず。之を大人と為すのみ。

(孟子  告子上  十五)

感覚器官も、心・脳もすべて天から与えられた徳性です。その内の大なるもの、つまり心・脳から発する想い・志を重んずれば、感覚器官の刺激に翻弄されることもない。これを以て、大人と為す。まさに「志は気の帥」です。

 

逆に言うと、感覚器官に翻弄され、本性を見失ってしまう人が小人である。脳のフィルタリング機能で捉えると、生存欲求や快楽による世界観に囚われている人が小人であると言えるのかもしれません。

 

もちろん、快楽も人間に必要な要素です。発散と収束、光と陰の繰り返しにより、人も社会も発展する。しかし、発展にはやはり思い・想いが必要だろうと思います。想いがあってこそ、人も情報も目に留まり、得ることができる。

「思えば則ち之を得るも、思わざれば則ち得ず」。時に立ち止まって、味識したいと感じる一節です。

 

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