尽く書を信ずれば

盡信書、則不如無書、

尽く書を信ずれば、則ち書無きに如かず。

(孟子  盡心下  三)

ここでいう「書」は『書経』を指しており、自らの主張を押し通す孟子の強い姿勢を感じる一節です。

 

単純にこの一節を解釈すると、

『書経』に書いてあることをなんでもかんでも信じるようであれば、『書経』なんてない方が良い。

となります。『書経』は儒教における、いわゆる「五経」の1つで、日本においては昭和・平成といった元号の出典にもなっています。

ただ、どんなに「書」が立派であっても、それを信じて疑わないような読み方しかしないのであれば、むしろ無い方が良い。これは一般の書物にも言えることです。

 

孟子は「仁人は天下に敵なし」とし、堯・舜の治世を理想とします。『書経』は古代から春秋時代までの歴史を記した書物ですが、当然、武力によって革命を成し遂げた歴史も記されています。

 

しかし、仁政を理想として掲げ、主張を曲げない孟子にとっては、周の武王によって成し遂げられた殷周革命(殷の紂王を周の武王が破り、周王朝を建てた革命)は血の楯によって達成されたもので、理想とは異なる。

そこで、

吾於武成、取二三策而已矣、

われ、武成においては二三策を取るのみ。

とし、武王の興行を記した「武成篇」から学ぶところは2、3箇所に過ぎないとします。

 

もちろん、書物を読むことは重要で、書物に学ばないというのは論外である。ただし、書物というものは己の主張を持ち、思索を深めるという想いで読まなければ、害悪になることすらある。

 

人間の想いというものは、それほど単純ではなく、書物を読んで表面的に知識を蓄えても、それは生きた知恵にはならない。

 

安岡正篤は、

物知りというのは勿論結構、場合によっては面白い、或る種の値打ちもある。けれども、人間の本質的価値に何ものを加えるものでもない。いわんや物知りを自慢にするなどというのは、これくらい他愛のないことはない。

と言い、また、

知識なんてものは、そのもの自体では力になりません。知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られます。本を読んだり、お話を聞いたりするだけでも得られます。しかし、人間の信念や行動力にはなりません。知識というものにもっと根本的なもの、もっと権威のあるのが加わりませんと、知識というものは役に立ちません。それは何かと言えば見識です。

あるひとつの問題についても、いろいろ知識の持った人が解答いたします。しかし、それはあくまでも知識であります。しかし事に当たってこれを解決しようという時に、こうしよう、こうでなければならないという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟り等が内容となって出て参ります。これが見識であります。

でも、この見識だけではだめで、反対がどうしてもあります。そこでこれを実行するためには、反対、妨害等を排し実行する知識・見識を胆識と申します。つまり、決断力・実行力を持った知識あるいは見識が胆識であります。

と説いて、「知識、見識、胆識」というものを定義します。「胆識」までいかなくては実行力がない。実行力の伴わない知識は、真の意味で役に立たない。生活的・精神的・人格的な、本当の意味での学問ではない。

 

経験を積み、思索反省を重ねて、徳に根ざした知恵、「徳恵」(「とくえ」、または「とくけい」)という学問をしなければならない。

 

書物は出版するという行為自体からして、出版する側の主張を含んでおり(例えば、中国で革命後に出版される史書においては、前王朝の欠点と現王朝の美点がどうしても強調されます)、ただ従うのでは何の役にも立ちません。

そうではなく、自らの見識・胆識を養うための刺激として、書物は手に取るべきである。忘れるべきでない教えです。

 

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