恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私たちが苦悩と忍従の中で、どれほど強くあり得るか、ということを自分に示すためにあるものです。
(ヘルマン・ヘッセ 『郷愁』より抜粋)
恋だのなんだのという身でもありませんが…、ある知り合いが「恋」について文章を書いているのを見て、どういうものだろうと考えたので、少しだけ記しておければと思います。
孤悲 – 孤り悲しむ
「恋」という言葉について、旺文社の『古語辞典』には、
【恋】目の前にない、人や事物を慕わしく思うこと。心ひかれ、それを自分のそばにおきたいと思うこと。
(旺文社 『古語辞典』より抜粋)
と説明されています。さらに、「自分の求める人や事物が自分の手中にある時は『恋』の思いとならず、手中にしたいという思いのかなえられず、強くそれを願う気持ちが恋なのである」と。
『徒然草』に「雨に対(むか)ひて月を恋ふ」とありますが、古語の「恋」は喜びにはならず、悲しさ、苦しさ、涙などと結びつく思いである。
『万葉集』には、「こい」に「孤悲」という字が当てられることがあります。つまり、「孤(ひと)り悲しむ」という気持ちが「恋」の1つの側面である。
「恋」を男女の情に限定して使うのは現代的で、本来は理想に対する孤独な悲しみを「恋」という。そして、その苦悩と忍従に対する強さを「恋」が示す。そういうものであるということだろうと思います。
故非 – 故(もと)は非(しか)らず
「こい」にはまた、「故非」という字が当てられることもあります。こちらは「故(もと)は非(しか)らず」という意味と解することができます。
いずれにせよ、今、目の前にあるものを慕うのは「恋」ではなく、過去であれ未来であれ、近くであれ遠くであれ、「恋」とは今はないものに対する恋慕のことを指しているのだと思います。
感覚的には情熱的なものという印象以上に、静かで強い想いのように感じ、
恋愛は若者の幸福なる特権であり、老人の恥辱なり。
という古代ローマの喜劇作家、ププリリウス・シルスの言葉とは裏腹に、若者の特権であると同時に、老人の特権であるようにも思えます。一方で、ドイツの詩人、ハインリヒ・ハイネが記した『シェイクスピアの女たち(Shakespeares Mädchen und Frauen)』にある、
恋に狂うとは、ことばが重複している。恋とはすでに狂気なのだ。
という言葉には真実を感じます。要するに、目の前にないものに拘るというのは一種の狂気である。対象が異性であれ、理想やビジョンであれ、「恋」とはすでに狂気である。
古今東西、「恋」に関する言葉は多くありますが、おそらく、それぞれの言語が持つ世界観や使用した人・時代の文脈、翻訳の際の都合により、多くの感情が混合した存在として「恋」が語られているように感じます。
それもまた、「恋」という感情がほとんど狂気であるということと、無関係ではないのだろうと思います。
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