学而時習之、不亦説乎、
学びて時に之を習う。また説(よろこ)ばしからずや。
(論語 学而第一 一)
あまりにも有名な『論語』の冒頭であり、「学習」という言葉の出典となっている一節です。『荀子』の「功は舎めざるにあり」にいうまでもなく、人は絶えず学び習うことが重要であると思います。
では、「学び習う」とは何か。今回は「学習」という言葉について、考えてみたいと思います。
学 – 伝統・規範を学ぶ学舎
「学」は古くは「學」と書かれ、千木(交叉した木)のある屋根の左右に臼(左右の手の形、教え導くの意)を配した形を上部に配し、その下部に「子」が加えられた形、つまり子弟教導の学舎の形とされます。
白川静の『常用字解』には、
古い時代には、一定の年齢に達した若者たちは、氏族の長者たちのもとで氏族の伝統や生活の規範を学んだ。
とあり、先人の事績・知恵を身につけるというのが「学」の意味です。『荀子』の「幼にして学を強め、老にして之を教う」にあるよう、学びの継承が古来、基本ということでしょう。
よくよく考えてみると、どんなに最新の知識・知見であっても、学ぶ時点で過去の事績でないものはなく、学び取り入れて、そこから新たなものを生み出すことは次のステップです。先人の事績を知るのが、学習の第一歩です。
習 – しばしば飛ぶなり
後漢の許慎が著したとされる『説文解字』では、羽と白を合わせた字とされ、白は鷹の雛であって、
鷹の雛が羽が生えると毎日幾度も飛ぼうとするように、繰り返し繰り返し練習するのである。
(宇野哲人 『論語新釈』より抜粋)
とするのが一般的です。白川静は下部が「白」では音が合わないとし、下部は「日」であって、神への祈りの文である祝詞を入れる器の中に祝詞が入っている形とし、その器を繰り返し羽で摺って、祈りの効果を刺激する行為を指すとします。
文字が古くは政(まつりごと・祭事)のために生まれたと考えると、白川静の説に信憑性がありますが、個人的には「小鳥が飛ぶ練習をしている形」という自然観察的な起源の方が美しさや可愛らしさを感じて、好きです。
いずれにしても、「習」は繰り返しによって効果を強めること、そして、それに慣れる・意識せずともできるようにすることという意味になります。実践練習を繰り返すことが「習」です。
学びて時習す
文字の意を解すると、「学習」とは「過去を学び、それを繰り返して身につけること」という意味です。机上ではなく、まさに「君子の学ぶや、動静に形る」です。耳学問ではなく実践することこそ、「学習」の本義だろうと思います。
なお、『論語』の「時に習う」に見える「時」の解釈も重要です。「時」はいうまでもなく「ときどき(sometimes)」と解したのでは意味が通りません。「常に(always)」、「その時々に、間断なく」と解するのが正しい。
その意味で、安岡正篤は「学びて之を時習す」と読むのがよいとも言っています。いずれにしても、学べばすぐさま実践練習することが重要だと感じます。
学習知新 – 故きを温ね、新しきを知る
さらに論を進めると、「学習」だけでは新しいものが生まれない、生成化育としては不十分ということです。そこで、
温故而知新、可以為師矣、
故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知れば、以て師となるべし。
(論語 為政第二 十)
「温故知新」であって、初めて人の師たりえるとされます。
「温故」は「故(ふる)きを温(たず)ねる」という点から分かるように、要するに「学習」です。「学習知新」、『大学』にもあるようにあらゆるものに親しみ、日々新たに生きることこそ、人のあるべき姿だと感じます。