学は通の為に非ざるなり

君子之学、非為通也、為窮而不困、憂而意不衰也、知禍福終始而心不惑也、

君子の学は通の為に非ざるなり。窮して困しまず、憂ひて意衰えず、禍福終始を知りて惑わざるが為なり。

(荀子  宥坐編  八)

学問は名利栄達、立身出世といったもののためにあるのではなく、窮しても困(くる)しまず、憂いがあっても意(おもい)が衰えることなく、物事の禍福・終始をよく悟り、心の迷いを生じさせないようにするためにある。窮じて初めて、修養の真価が問われます。

 

修身端行、以て時を俟つ

易経に「変ずれば通ず」とありますが、「通」は時世の巡りによるものであり、生死もまた自然の命数です。蘭は山奥に生えるが、人が居ないからといって芳香を放たないなどということはありません。

人もまた同じでなくてはならない。『荀子』では孔子の言葉として、

君子博学深謀、修身端行、以俟其時、

君子は博学深謀にして、身を修め、行いを端(ただ)し、以てその時を俟つ。

と教えています。博学深謀、修身端行。これを以て、君子となす。

 

賢愚は才の問題であり、行いは意志の問題ですが、時世は時の問題であり、人の力が及ばない領域が少なからずあります。逆に言うと、才と意志は努力次第であり、もちろん、それが時を啓くこともある。

ただ、時が啓くか否かはやはり時世の問題ではある。そこで君子は博学深謀、修身端行を尽くすのみなのだと思います。

 

『論語』には、

古之学者為己、今之学者為人、

古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。

(論語  憲問第十四  二十五)

とあります。自身の修養なくして、人に尽くすことはできません。これは決して、人のために努力をしないということではなく、人に知られるための学問では駄目で、己の身を得ることが修養の基本であることを教えています。

 

位に素して行い、易に居て命を俟つ

山鹿流兵法の祖であり、敬慕すべき日本人の1人である山鹿素行の字(あざな)「素行」は『中庸』から採られており、

位に素して行い、その外(ほか)を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧賎に素しては貧賎に行い、夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし。

上位に在っては下を陵(しの)がず、下位に在っては上を援(ひ)かず、己を正しくして人に求めざれば則ち怨みなし。上、天を怨まず、下、人を尤(とが)めず。君子は易に居て命を俟(ま)つ。

(中庸  第十四章)

居易(易に居る)は素行(素して行う)であり、俟命(命を俟つ)は不願(願わず)です。日本でも愛される唐の詩人、白楽天の名は居易ですが、「居易」もまた『中庸』のこの一節から採られたとされます。

 

「素位而行、不願其外、居易俟命」とはまさに至言です。儒学では射(弓)が修養の一科目とされますが、姿勢を正して矢の行く末を恃まない態度が君子に似ているというのが、その理由の1つとされます。

素して行い、易に居て命を俟つ。天を怨まず、人を尤めず、入りて自得する。そうありたいものだと思います。

 

論語新釈 (講談社学術文庫 451)
宇野 哲人
講談社
売り上げランキング: 16,964

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です