いささかよければ事たりぬ

いささかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是皆、わが気を養なふ工夫なり。

(貝原益軒  養生訓  卷第二  三十六)

貝原益軒の『養生訓』には、養生のためには安心を得ることが大切であると繰り返し説かれています。そして、人がなんにでも十分に満足できることを求めることが、その大きな妨げになるとされます。

 

わづらひを避けて、楽しみを得る

有名な食事に関する心がけに「腹八分」というものがありますが、「食事の量」という結果以上に、「満腹」を求める心に不養生の根本がある。貝原益軒の論は、そう述べているように思います。

凡(すべて)の事十分によからんことを求むれば、わが心のわづらひとなりて楽(たのしみ)なし。禍(わざわい)も是よりおこる。又、人の我に十分によからん事を求めて、人のたらざるをいかりとがむれば、心のわづらひとなる。又、日用の飲食、衣服、器物、家居、草木の品々も、皆美をこのむべからず。

(貝原益軒  養生訓  卷第二  三十六)

「他人には十分によく接してほしい」。「食事は美味しいものを十分に食べたい」。その想いが心のわずらいとなって、楽しむ心を失わせてしまう。

 

「わづらふ」という古語には、「そのことに心をとられて、それから脱しきれずにいること」という意味があるとされ、漢字としては、煩・患・累といった字が当てられます。

どの字にも「わずらふ」だけの理由がありますが、「累」という字は「田」に土塊を積み重ねる(塁)の意、「糸」に糸束を重ねるの意があり、「ものを積み重ねて危殆の状態にあること」、また「糸などがまといついて、進退の自由を失うこと」と白川静の『字訓』では説明されています。

 

なんによせ、想いというものは絡み合ってしまうもので、囚われるとほどくことができなくなり、自由を失ってしまう。いきすぎると進退を失う。

それは楽しみを至上とする養生にとって、良くないことであるということだろうと思います。

 

心法を守らざれば、養生の術は行はれず

そこで、養生の術を行うためには、まずは心法を守ることが大切とされます。人は意識的にも、無意識的にも、自分を縛っている。

人は、いつも、自分をさまざまな意識でしばりあげている。見栄、てらい、羞恥、道徳からの恐怖、それに、自分を自分の好みに仕立てあげている自分なりの美意識がそれだ。それらは容易に解けないし、むしろ、その捕縄のひと筋でも解けると、自分のすべてが消えてしまうような恐怖心をもっている。

(司馬遼太郎  『風の武士』より抜粋)

「安心」のために築こうとした様々なもの、他者からの評価、社会的な正当性、人生への美意識。そういったものが、やがて自分を縛り、「安心」を得たがために「安心」を脅かし、さらには逃れられなくなることで恐怖を生む。

 

常に楽しむということはたやすくはありませんが、「常に楽しんで、憂えず」ということを意識することはとても大切だと感じます。

養生の術、まづ心法をよくつつしみ守らざれば、行われがたし。心を静にしてさはがしからず、いかりをおさえ慾をすくなくして、つねに楽んでうれへず。

是養生の術にして、心を守る道なり。心法を守らざれば、養生の術行はれず。故に心を養ひ身を養ふの工夫、二なし、一術なり。

(貝原益軒  養生訓  卷第二  六十五)

心を騒がしくせず、心を守る。心を守ることが養生の術であり、心を養うことと身を養うことは1つである。

 

よくよく読んでみれば、なんということはなく、当然のことが書いてあるとも感じます。しかし、欲を満たすこと、感情のままに振るまうことが楽しみであると、つい誤解をしてしまうこともある。

知ってはいても、体得することは難しい。折に触れて、味わうべき教えだと感じます。

 

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