命を知る – 盛衰哲学としての易経
不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也、 命を知らざれば、以って君子と為るなし。礼を知らざれば、以って立つなし。言を知らざれば、以って人を知るなし。 (論語 堯曰第二十 三) 命・礼・言を知るをも...
不知命、無以為君子也、不知礼、無以立也、不知言、無以知人也、 命を知らざれば、以って君子と為るなし。礼を知らざれば、以って立つなし。言を知らざれば、以って人を知るなし。 (論語 堯曰第二十 三) 命・礼・言を知るをも...
喜んで人に随っていると、安逸に溺れ、腐敗に至る。蠱はその字の通り、皿の上に虫が乗っている形であり、ある意味で随っているが、一方で腐敗したものに蟲がわいていると見ることもできます。
雷地豫で和楽、豫(たの)しみ、豫(よろ)こびのときを迎えると、人々だけでなく、あらゆるものが魅力を感じて付き随ってくる。発展の1つの完成形が澤雷随です。
豫の卦は地山謙を反転した形。同人集まり大有となり、謙の徳を養うことで豫、つまり和楽(やわらぎ、よろこび、たのしむ)ことができます。
志通う者が心を合わせて力を発揮し(天火同人)、発展隆盛すると(火天大有)、驕慢の心が生じる。しかし、驕慢は亡びへの道であり、所有の大なる者は決して盈ちてはならない。そこで大有に謙が続き、謙遜の徳を教えます。
地より火が起こり天に上る、閉塞(天地否)を志通う者たちの和同によって打破する天下同人に続くのが、火天大有の卦です。大いなる所有を示す一方、満ちることはまた衰退を示唆します。
社会生活において、最初は天澤履(礼に従い履み行う)、それによって地天泰(物事が通じる)、やがて天地否(塞がるときを迎える)と続き、いつまでも塞(否)がってはおられないので、否の卦の次に同人が置かれるとされます。 否(ふさ...
泰の卦を反転させた形が否であり、物事はいつまでも通じて(泰)ばかりはおらず、通じれば否(ふさ)がるため、泰の卦の次に否の卦が置かれるとされます。
泰は水中に落ちた人を両手で助け上げる形で、「やすらか」、「ゆたか」という意味となり、泰然・泰平・安泰などの熟語があります。 中国において、天子が天地を祭る封禅(ほうぜん)の儀を行われる中華第一の名山が泰山です。地でもっと...
履の卦は小畜を反転させた形です。「履」は履(ふ)む、履(おこな)うと読みますが、同時に中国においては「礼」と同じ音であり、礼は人の履行すべきものとして、「履」と「礼」が通ずるという解釈も見られます。 古代中国においては、...
白川静によると、「畜」は「玄」と「田」から成り、「玄」は糸束をねじった形、田は染汁を入れた鍋の形で、染汁の鍋に糸束を漬けて染色することを示すとされます。 長い時間をかけて色を深くしていくことから、「つみかさねる」「とどめ...
「比」という字は右向きの人が2人並んだ形であり、現在では主に「くらべる」の意で用いられますが、元々は「したしむ」「ならぶ」「したがう」の意を持ちます。
諸葛亮孔明の「出師の表」からも分かるように、師は「兵」や「戦」という意味を持ちます。争訟には戦がつきものである。そこで訟の次に師の卦が置かれます。
需の卦を反転させると、この訟の卦となります。需が「待つ」、「求む」であり、「飲食宴楽し、精神を豊かにする」ときであったのに対して、訟はその字の通り「訟(あらそ)い」、「争い」を表します。
蒙は赤ん坊で水の険しさを山が止めている形でしたが、需は下卦に健の徳である「天」、上卦にそれを妨げる「水」が配置されており、にわかには進めないため「待つ」、あるいは「求める」時とされます。
乾(天)と坤(地)が交わり、屯となった(物事が生じた)後の卦が蒙です。もう赤ん坊ではないものの、まだ未熟で蒙(くら)い状態を表し、「蒙昧」や「童蒙」と表現されます。
乾(天)の創造的エネルギーと坤(地)の生成化育の徳が交わった後に現れる卦が屯です。屯の字の上部にある「一」は地面を表し、屯は草木が芽生え、地面を突き破った形を示します。
乾が「天」であり「君」であるのに対して、坤は「地」、「臣」の象徴です。乾の卦が各爻すべて陽であるのに対し、坤の卦は各爻すべてが陰であり、乾坤両卦が揃うことで万物が生じます。
易は乾坤(天地)から始まり、乾は六十四卦の冒頭に位置づけられます。六爻すべてが「陽」であり、もっとも純粋な陽、最高に健なるものの象徴で万物の源とされます。
易学とは、宿命を尋ねる学問ではなく、創造進化、我という存在をどこまでも創造進化させていく学問、すなわち義命の学問であります。 (安岡正篤 『易と人生哲学』より抜粋) 「易」というと五行思想や十干十二支から四柱推命学や九...