賢者の楽しむところは道

賢者の楽しむところは道のみ、好むところは善のみ。

勢位利禄、ひとつも心に入るところなし。

(講孟箚記 安政三年五月十七日)

私は、今はそれほど「勢位利禄」に興味がないと思っているのですが、やはりそれには人間を捉えて放さない魔力があるのだろうと思います。

 

お金や地位や名誉が一番ではないものの、楽しむところが「道」のみ、好むところが「善」のみでは、やはりありません。むしろ、「勢位利禄」を好む心は拭いきれないものだと感じます。

 

長い歴史の中には、おそらく楽しむところが「道」のみ、好むところが「善」のみにかなり近い方も、実際にはいたのだろうと思っています。しかし、そういった方たちは、それ以外の生き方ができなかったのではないかと感じています。

 

宮城谷昌光の小説『晏子』の中に、「無欲はそれ自体が欲望を産む。だから、寡欲が良い。」といった表現がありますが、私はこの表現がとても気に入っています。

 

これは生き方の好みではあると思うのですが、私は「勢位利禄」で道を誤ることのないようにしたい、寡欲でありたいと思っています。

「勢位利禄」は手段であって決して「志」にはなりえない、必ずしも多くの人を幸福にする手段ではないと、何となく思っているのだと思います。

 

晏子〈第1巻〉 (新潮文庫)
宮城谷 昌光
新潮社
売り上げランキング: 120340

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です