万の事はしらざる故に不審あり

万の事はしらざる故に不審あり。うたがはしき故に、その事が胸をのかざる也。道理があきらかにすめば、胸に何もなくなる也。是を知をつくし、物をつくすと云う也。

(柳生宗矩  『兵法家伝書』  より抜粋)

『兵法家伝書』は進履橋(しんりきょう)・殺人刀(せつにんとう)・活人刀(かつにんとう)の3部から成り、宮本武蔵の『五輪書』と並ぶ代表的な武道書です。

引用した一節は「殺人刀」の中で「ならひ」の方法を記したもので、『大学』の致知格物を引いて、その方法が説かれています。

 

胸にある物をはらひつくさむ

以前にも『大学』の「致知格物」に関する、朱子学と陽明学における解釈の違いについてご紹介しましたが、『兵法家伝書』では、

ありとあらゆる事の理をみなしりつくして、しらずと云う事なきを、知を致(いた)すと云う也。又格物とは、事をつくすとよめり。その事々の道理をしりつくせば、その事々みなしらずという事なく、せずと云う事なき也。しる事がつくれば、事もつくる也。

(柳生宗矩  『兵法家伝書』  より抜粋)

とあります。要するに、道理を知り尽くし、物事がどうあるかを知り尽くすということが「致知格物」である。そうすれば、胸に何もなくなる。道理を知った者は未来を見通すことができ、不審を抱くことはない。

 

人間というものは、不審によって心の作用が曲げられ、行蔵が乱れます。胸に何もなくなれば、妨げられることなく、あらゆることがしやすくなる。それが学問をする理である。

よろづの道を学ぶは、胸にある物をはらひつくさむ為也。はじめは何もしらざる故、一向に胸に不審も中々になき物也。学に入りてより、胸に物がありて、其物にさまたげられて、何事も仕(し)にくくなる也。

其学びたる事、わが心をさりきれば、ならひも何もなくなりて、其道々のわざをするに、ならひにかかはらずして、わざはやすらかに成りて、ならひにもたがはず、われも其事をしながら、我もしらずしてならひにかなふ物なり。

(柳生宗矩  『兵法家伝書』  より抜粋)

何も知らなければ、人は素直に生きられる。実は学ぶということは様々に妨げられる原因となる。しかし、人はやはり学ぶ必要があると私は思います。

では、どうするか。学びによって、学びを去る必要がある。これを以て、「ならひ」の道が成るということだろうと思います。

 

我もしらずしてかなふが道の至極なり

以前に「守拙(拙さを守る)」という概念をご紹介した際に、千利休の道歌、

稽古とは  一より習ひ十を知り  十より帰る  もとのその一

を引きましたが、柳生宗矩の「ならひ」もこの教えにとても近いと感じます。『兵法家伝書』では、「よく習をつくせば、ならひの数々胸になく成る」と教えています。

またはシンプルに、「習より入りて、習なきにいたる」。そして、

ならひをわすれ、心をすてきって、一向に我もしらずしてかなふ所が、道の至極也。

(柳生宗矩  『兵法家伝書』  より抜粋)

結局のところ、人間の心の動きというものは、どうしても行いに出てしまうものです。心が迷えば、行いも迷う。敵に対した際に心の動きが出てしまうというのは命取りになります。

 

そこで、「ならひ」を重ねた結果として、手足身に所作がしみ込むが心はないという状態が理想であり、それが「ならひ」の目的とされます。

わが心いづくにありともしれず、天魔外道もわが心をうかがひ得ざる也。この位にいたらん為の習也。

(柳生宗矩  『兵法家伝書』  より抜粋)

これはいわゆる「道にかなう」ということであり、柳生宗矩は「天然と道にかなふ人もある也」とも記していますが、やはり凡人としては学ぶことは必要です。

しかし、ある教えを学ぶことにより、その教えに執するようになってはいけない。学びが道である以上、「学ぶ」とはいわゆる学ぶことでなく、「学ぶ」をするものであり、「学ぶ」をし続けることであろうと思います。

 

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