天を相手にすべし

人を相手にせず、天を相手にすべし。天を相手にし、己をつくし、人を咎めず、我が誠の足らざる所を尋ぬ可し。

(大西郷遺訓)

南州翁の広大無辺な器を感じさせる一節です。

 

大政を理するは、天道を行ふものなり」でも表現されているように、人は天の代表者、体現者として生きるべきというのが、西郷隆盛の思想の根幹にあると感じます。

 

孔子は「朝聞夕死」(ちょうぶんせきし)、つまり、

朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり。

(論語  里仁第四)

と説いていますが、道を知るということはそれ自体、非常に尊いもので、天道を行っていれば生きる・死ぬということは気にならなくなる。己をつくすという一事に専心し、地位や名誉、金銭や名声などというものに捉われず、「我が誠の足らざる所を尋ぬ」という心持ちで生きるべきということだと思います。

 

「己をつくし、人を咎めず、我が誠の足らざる所を尋ぬ」というのは、さすがに聖人の境地だと感じますが、人は容易に「己を愛し」、自らの自尊心を満たすという低きに流れます。必要以上に金銭を求めたり、名声を欲する心を拭いきれず、醜い振る舞いをしてしまいます。

 

孔子はまた、「悪衣悪食を恥ずる者は、与に議するに足らず」とも述べています。もちろん、生活が安定しているということは大切ですが、天を相手にするということは、失うものがあっても道を行うということなのだと思います。

突き詰めると、「欲するところ生より甚だしきあり、悪むところ死より甚だしきあり」という精神につながります。

 

「天を相手にすべし」という教えは、すぐに人を相手にして、癇癪を起こしたり、名声を競ったりしてしまう私たちにとって、とてもシンプルに指針を示してくれると感じます。

 

明治の英傑、頭山満はこの一節に対する解説の中で「天則人」、「人則天」と説いています。低くて小さいものは楽ですが、高くて大きなものは決して楽ではありません。しかし、だからこそ、その境地に意味があり、美しさがあるのだと思います。

無論、私自身もまったくできていないことなので、天を相手にし、己をつくす気持ちを少しずつでも養っていきたいと感じます。

 

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